有馬晴純(ありま・はるずみ) 1483〜1566

肥前国有馬氏第10代の当主。有馬純鑑(尚鑑)の嫡男。初名を賢純。義純・義統とも称す。修理大夫。法名は仙岩(仙巌)。南明軒と号す。
有馬氏中興の祖と呼ばれる有馬貴純の孫にあたる。
前半生については不詳であるが、天文8年(1539)7月には肥前守護の地位にあって将軍・足利義晴に「晴」の一字と修理大夫の官途を所望していることが知られ、この以前あるいは直前に有馬氏の家督を継承したと見られる。
祖父・貴純のとき以来の有馬氏の発展を継承して肥前国日野江城を本拠とし、膝下の高来郡をはじめとして肥前国東部の藤津・杵島・彼杵の4郡を領国としたほか、松浦郡にも勢威を及ぼすなど安定した支配体制を展開した。この晴純の時代、有馬氏の動員兵力は2万余騎にも及ぶといわれるほどの威勢を誇った。
天文13年(1544)、馬場頼周の謀略に加担して龍造寺家兼を攻めた。
天文21年(1552)、70歳で家督を嫡子の有馬義貞(義直)に譲ったが、永禄6年(1563)に義貞が龍造寺隆信に大敗したことを機に家臣らが離反したことを受け、義貞を領外に追放して再び執政した。
永禄9年(1566)2月28日、84歳で卒去。これ以前に義貞が復帰していたと見られ、晴純の死後は義貞が家督を継承している。
戦国時代の有馬氏はキリシタン大名として著名であるが、この晴純は熱心な仏教徒であり、キリシタン大名に転化するのは晴純の孫・晴信の時代からである。