龍造寺家兼(りゅうぞうじ・いえかね) 1454〜1546

肥前国龍造寺氏第14代・龍造寺康家の五男。分家を興し、水ヶ江龍造寺家と称す。通称は孫九郎。左衛門佐・山城守。号は剛忠。
龍造寺氏宗家の家督は康家のニ男・家和が継ぎ、家和の死後はその子・胤和、続いてその弟・胤久が当主となるが、この間家兼が後見した。
当時の龍造寺氏は少弐氏に属しており、享禄3年(1530)には大内氏の攻勢を受けていた少弐資元の依頼によりその子・松法師丸(のちの少弐冬尚)を保護し、8月には大内義隆の派遣した杉興運と戦い(田手畷の合戦)、奇策によってこれを破って佐賀郡河副荘1千町の所領を与えられるなどしている。
天文3年(1534)10月、義隆から資元との和議斡旋の要請を受けてこれを成立させたが、義隆は翌年から少弐氏への圧迫を再び始め、天文5年(1536)に陶興房を派遣して資元を攻めて自刃に追い込んだため、少弐家臣らからは大内氏に通じたとして非難された。これを発端として、資元の遺児・松法師丸を保護していた蓮池城主・小田資光らと不和になったが、のちに和睦している。
天文7年(1538)2月に二男・家門に家督を譲り、剛忠と号して出家したが、依然として水ヶ江龍造寺家の実権は掌握していた。
天文13年(1544)11月、家兼の失脚を画策した少弐氏重臣・馬場頼周は偽りの軍令で家兼の軍勢を各所に出動させて分断を謀り、各個に撃滅して敗退させた。家兼は佐嘉(佐賀)城を守備していたが、翌天文14年(1545)1月下旬に頼周の和議勧告に応じて開城。家兼は筑後国の蒲池鑑盛を頼って落ちのびたが、この和議勧告も頼周の謀略で、子の家純・家門や孫の周家・純家らは頼周の軍勢によって殺害された。
しかし同年3月に重臣・鍋島清房の尽力によって味方勢力を糾合することに成功し、かつての居城であった水ヶ江城を奪回。4月2日には頼周を誅殺して龍造寺氏の再興を果たした。
天文15年(1546)3月10日に死去。享年93。法名は剛忠浄金居士。
死期に臨んでは、曾孫で僧籍にあった龍造寺隆信を還俗させて家督を継がせるように命じたといわれ、その隆信はのちに龍造寺氏を隆盛に導くこととなった。