少弐資元(しょうに・すけもと) 1489?〜1536

少弐氏第15代当主。少弐政資の末子。大宰少弐・肥前守。大友政親の娘を妻とした。
明応6年(1497)、幕府から討伐令を得た大内義興の攻撃を受けて父・政資が敗死したのち、少弐一族の横岳資貞に匿われてその居城・肥前国三根郡西島城で養育されていたが、永正年間(1504〜1521)中に大内氏と和睦するとともに幕府の赦免を得た。
こののちは肥前国神埼郡の勢福寺城を拠点としてしだいに勢力を拡大したが、享禄元年(1528)12月に大内義興が没して子・義隆が大内氏の当主となると、大内氏は少弐領への侵攻を再開を企て、享禄3年(1530)4月には筑前守護代・杉興運を東肥前に派遣して攻め入らせた。このときに資元は隠居して家督を子・冬尚に譲ったといわれるが、大内氏の軍勢は龍造寺家兼や鍋島清久らの戦功によって撃退された(田手畷の合戦)。
天文元年(1532)には大友義鑑と結んで大内氏に対抗。天文2年(1533)に大内氏武将・陶興房や杉興運らの侵攻を受けて防戦に徹したが、天文3年(1534)7月の龍造寺家兼らによる奇襲などによって大内勢を破った。
しかし同年10月に大内義隆自らが率いる軍勢3万の来襲を受けると、資元は家兼の進言を容れて義隆との和議を結んで勢福寺城を明け渡したが、翌天文4年(1535)には約束を違えた義隆によって東肥前3郡の所領を没収されて多久に逃れ、さらに天文5年(1536)に至って陶興房の追討を受け、9月4日に多久専称寺で自刃した。享年は48とも伝わるが不詳。法名は心月本了。