田手畷(たでなわて)の合戦

鎌倉時代以来の名族である少弐(武藤)氏は、一時期は筑前国・肥前国・豊前国・壱岐・対馬の守護職を兼ねる北九州一の大勢力だったが、南北朝時代になると周防国の大内氏の勢力が増長して北九州にまで及んできたため、ついには肥前国の覇権をめぐって少弐氏と大内氏が対決するに至った。
大内義興は明応6年(1497)1月に陶興房らの率いる軍勢を派遣し、4月には少弐氏を完膚なきまでに叩き、少弐政資らを敗死させている。

享禄3年(1530)4月、政資の子・少弐資元に勢力回復の兆しを察した義興の子・大内義隆は、筑前守護代の杉興運に肥前国への出陣を命じた。
興運は筑紫尚門・朝日頼実・横岳資貞ら肥前国東部の武将を降して先陣に据え、資元の拠る肥前国神埼郡の勢福寺城に向けて侵攻。その勢力は1万にも達したと見られている。
一方、それを迎え撃つ少弐資元は譜代家臣の龍造寺胤久・小田政光馬場頼周・江上元種らに防戦を命じた。胤久は一族の龍造寺家兼を出陣させ、両軍は筑後川の支流・田手川付近において対峙した。
合戦は8月15日に東田手(蓼・田伝とも書く)で行われたが、数に劣る少弐勢は苦戦を免れ得なかった。しかし突如として、赤熊の毛皮を纏った芸能一座のような百人ほどの一団が杉勢の中に割って入ってきたため、杉勢は浮き足立ってしまったのである。
これを好機とした龍造寺隊が奮起したため戦況は逆転し、その乱戦の中で筑紫・朝日・横岳らの諸氏は討死し、杉は命からがら逃げ帰るという事態に陥った。龍造寺隊は1千の兵で8百余の首級を挙げたという。

この合戦ののち、赤熊一団の正体が肥前国佐嘉郡本荘の郷士・鍋島清久やその一族、鍋島家臣の野田・石井一党らであることがわかると、家兼は恩賞として佐嘉郡本荘に所領を与えたほか、清久の二男・鍋島清房に孫娘(龍造寺家純の長女)を娶らせた。のち、この夫婦の間に龍造寺氏の名臣として名高い鍋島直茂が生まれることとなる。
これをきっかけとして水ヶ江龍造寺氏と鍋島氏は緊密な主従関係を結ぶに至り、鍋島氏の家名が知れ渡ると同時に家運をも開くこととなったのである。
なお、この赤熊による奇襲作戦を発案したのは鍋島家臣の野田清孝であると伝わり、この戦いを『苔野口の合戦』とも呼ぶ。