有馬義貞(ありま・よしさだ) 1521〜1576

有馬晴純の嫡男。母は大村純伊の娘。通称は太郎。初名を晴直、ついで義直、永禄9年(1566)より義貞と名乗る。妻は有馬氏重臣・安富徳円の妹(または娘)。左近大夫・修理大夫。肥前国高来郡日野江城主。
キリシタン大名として著名な大村純忠の実兄。自身も天正4年(1576)3月に肥前国口之津で洗礼を受けてキリシタンとなった。教名はドン=アンドレで、漢音では安天連・安天烈と充てる。
将軍・足利義晴の相伴衆となり、天文21年(1552)に父・晴純から譲りを受けて家督を相続。
永禄6年(1563)には弟・純忠の影響を受けてキリスト教への接近を図るが、同年7月の百合野の合戦で龍造寺氏に大敗を喫して家中の統制を失い、隠居していた晴純によって領内から追放された。復帰した時期は定かではないが、永禄9年(1566)2月末に晴純が没したのちに家督の地位に在ることから、それ以前のことであろう。
有馬氏は晴純の時代には肥前国の過半を領する大領主であったが、義貞の代に至って台頭著しい龍造寺隆信としばしば交戦して勢力を削がれ、肥前国藤津・杵島の両郡から撤兵し、高来郡のみを維持するまでに衰退した。
生来の病弱であったらしく、保養のためにしばしば湯治を行ったことが知られる。
元亀元年(1570)の秋頃、多病を理由として家督を嫡男・義純に譲って隠居した。しかしその翌年の元亀2年(1571)6月に義純が死去したため、三男の晴信を家督に就けてその後見となった。
天正4年12月27日、日之江城で死去した。56歳。宣教師・ヴァリニャーニの記録によると、癌であったという。
詩歌に造詣が深く、和歌を内大臣・三条西実世(別称を実澄・実枝)に学び、能筆であったという。