大村純忠(おおむら・すみただ) 1533〜1587

肥前国有馬の領主・有馬晴純の二男。母は大村純伊の女。有馬義貞の弟。幼名は勝童丸。民部大輔・丹後守。
天文7年(1538)に大村純前の養嗣子となり、天文19年(1550)に家督を継いだ。しかし純前の実子・又八郎(のちの後藤貴明)を後藤家に養子に出してまで大村家に入嗣したことが貴明はもとより家臣の少なからぬ反発を受け、蔵入地の乏しさも加わって領国統治は困難を極めた。しかも周囲には平戸の松浦隆信鎮信父子、諫早の西郷純堯、深堀の深堀純賢ら有力国人がおり、その圧迫にも苦しんだ。
この窮状を打開するため、永禄5年(1562)に領内の横瀬浦を貿易港として開いてポルトガル船との交易を行い、軍事的・経済的利益の獲得を図った。これにあたって純忠は貿易関連の商人たちに優遇措置を取ったため、それまでは主に平戸に寄港していた商船もしだいに横瀬に入るようになったという。
翌永禄6年(1563)にはキリシタン宣教師を招いて家臣と共に集団入信し、国内で初のキリシタン大名となった。洗礼名はバルトロメウ。
しかし同年、叛徒によって横瀬浦が焼討されたため、永禄8年(1565)に福田浦、ついで元亀元年(1570)に長崎をポルトガル貿易港として開港した。さらに翌元亀2年(1571)には長崎に6町を建設、これが今日の長崎発展の基礎になったといわれる。
天正元年(1573)、後藤氏らによって急襲を受けるが、辛くも危機を脱した。
天正2年(1574)10月、領内の寺社を大規模に破却して仏僧を圧迫し、代わってキリスト教会の建立を推進した。これに伴い、領民を半ば強制的にキリシタンに改宗させたという。
天正8年(1580)4月、長崎および茂木の地をイエズス会に寄進。
この頃の日本におけるキリシタンは15万人とされているが、この半数近くの7万人ほどが大村領民だったという。
天正10年(1580)1月、有馬晴信大友宗麟と協力して天正遣欧使節 を編成し、他の少年使節と共に甥の千々石(ちぢわ)清左衛門(ミゲル)をローマに送った。
しかしその一方で天正年間に入ってからは龍造寺隆信の圧迫を受け、天正11年(1583)頃に隆信によって領主の地位を奪われ、1年余に亘って波佐見に追放された。
天正13年(1585)、羽柴秀吉の御教書を受けてその臣下となる。
天正15年(1587)5月18日病没。55歳。法名は純忠公円通院殿前戸部侍郎理仙日融大居士。