松浦鎮信(まつら・しげのぶ) 1549〜1614

肥前国平戸に生まれる。松浦隆信(道可)の子。通称は源三郎。肥前守。式部卿法印。平戸法印とも呼ばれた。号ははじめ宗信、のちに無外庵宗静と改めた。妻は西郷純隆の女。
永禄11年(1568)、父・隆信より家督を譲られて当主となる。
父の代より大村氏と対立していたが、天正14年(1586)には大村純忠との間に領域の協定を成立させた。
天正15年(1587)の九州征伐のおりには隆信と共に、有馬・大村らの諸氏に先んじて羽柴秀吉に謁して所領を安堵され、船団を指揮して島津攻めに従った。また、朱印状を受けて海外通商を行い、スペイン船などの寄港に尽力した。
文禄慶長の役では小西行長の1番隊に属して弟の信実や子の久信と共に先鋒を務めた。この出陣をきっかけとして兵農分離に着手し、家臣団に対する支配力を強化した。また、慶長4年(1599)に亀岡城を構築、家臣団を城下に集住させて城下町・平戸を整備した。
慶長5年(1600)関ヶ原の役では石田三成の出兵催促に応じず徳川家康に忠誠を示したため、合戦後に本領を安堵され、改めて肥前2郡・壱岐6万3千石に封じられた。
慶長6年(1601)に致仕、久信に家督を譲るが、この久信がわずか1年にして卒すると久信の子・隆信(宗陽)が13歳で家督を継ぐこととなり、鎮信が後見にあたった。
経済政策面においては父・隆信の遺志を継いで外国貿易に意を注ぎ、慶長14年(1609)、家康の許しを得て平戸に初のオランダ商館を設け、ついで18年(1613)にはイギリス商館を開いた。
慶長19年(1614)5月26日、平戸で没した。66歳。法名は慈源院殿天融源長大居士。
『武功雑記』という逸話集の著者が松浦鎮信であるが、本項の鎮信ではなく、本項の鎮信の曾孫である。