有馬晴信(ありま・はるのぶ) 1567〜1612

肥前国有馬城主・有馬義貞(義直)の三男。
幼名は十郎。天正7年(1579)頃には大友宗麟(義鎮)より一字を賜って鎮純(しげずみ)と名乗り、天正8年(1580)から12年(1584)頃には鎮貴(しげたか)と称している。天正13年(1585)には島津義久の諱字を所望して久賢(ひさまさ)と名乗りを替え、天正15年(1587)に晴信と改名。ほか、正純と称した時期もあったという。従五位下・左衛門大夫・修理大夫。
元亀2年(1571)、既に父・義貞より家督を譲られていた長兄の義純が若死にしたために5歳でその遺領を継ぎ、肥前国日野江城主となった。
有馬氏は永禄6年(1563)に龍造寺隆信との合戦に敗れて以来家運が衰退し、その下に臣従を強いられて圧迫を受け続けてきたが、キリスト教に接近してイエズス会からの食糧・武器・弾薬等の援助を受けることで辛うじて領国を維持できたという経緯があり、その代償として宣教師たちの要請を容れて領内の多数の神社仏閣を破壊し、仏僧に弾圧を加えたという。
晴信は天正8年にキリスト教の洗礼を受け、ジョアン=プロタシオの洗礼名を受ける。また、同年に日野江城下に日本で初めてのセミナリヨ(神学校)を設立、ついでコレジオ(セミナリヨの上位校)も設立した。天正10年(1582)1月28日には大村純忠・大友宗麟と共に少年使節団(天正遣欧使節)をローマに派遣しているが、この少年たちはみなこのセミナリヨの出身者であった。
天正9年(1581)に薩摩国の島津氏が北に向けて進軍を始めると直ちに誼を通じ、共同戦線を張った。
天正12年(1584)、島原で島津氏の援助のもとに、攻撃を加えてきた龍造寺隆信を討ち取り(沖田畷の合戦)、その重圧から解放される。この年、浦上の地をイエズス会に寄進。
天正15年の九州征伐後は羽柴秀吉に服して所領を安堵される。
文禄慶長の役では先陣となって渡海、7年間に亘って朝鮮に在陣した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役にあたっては、はじめは小西行長の督促を受けて西軍に属したが、のちに東軍に転じて小西領を攻撃し、本領を安堵された。
しかし慶長14年(1609)12月、長崎に来航したポルトガル船を焼き討ちにした後の『岡本大八事件』に巻き込まれ、慶長17年(1612)3月、所領を没収されたうえに甲斐国に流された。
同年5月6日、配流の地で自決した。46歳。