慶長13年(1608)、肥前国日野江城の有馬晴信がチャンパ(ベトナム南部:占城)に派遣した朱印船(幕府の許可を受けた交易船)がマカオに寄港した際、乗務員がポルトガル人と紛争を起こし、処断を受けるということがあった。その報復として、慶長14年(1609)12月、長崎に入港したポルトガル船マードレ=デ=デウス(別称:ノッサ=セニョーラ=ダ=グラーサ)号を襲撃、焼き討ちにしたのである。
晴信は、その功を幕府に上申して有馬氏の旧領の肥前3郡の返還を斡旋してやる、と持ちかけてきた本多正純家臣・岡本大八に多額の金品を贈賄。しかしこれが実現されなかったため、訴えでた。
この詮議において初めは晴信が優勢だったが、「晴信に長崎奉行暗殺の計画があった」と大八に巻き返された。その結果、晴信は所領を没収されたうえで甲斐国都留郡に流され、慶長17年(1612)5月、この地で自決した。
大八も同年3月21日、駿府の阿部川原で火刑に処せられている。
この事件が慶長18年(1613)に発令されるキリスト教禁止令の緒端になったといわれている。