神代利久の二男。大和守。肥前国山内(さんない)の領主。
神代氏は古くは筑後国高良山玉垂宮の大宮司であったが、文治年間(1185〜1190)に武人となって三井郡神代村に移住し、神代氏を称したという。勝利の父・利久は永正年間(1504〜1521)に近隣の領主らの圧迫を受けて神代の地を逐われたが、肥前国佐賀郡千布城主・陣内大和守の女婿となり、神代氏を再興した。
勝利は天文14年(1545)1月、台頭著しい水ヶ江龍造寺氏の失脚を図る馬場頼周の謀略に同調して龍造寺家兼配下の龍造寺家純・家門・純家らを討った。
天文20年(1551)10月に土橋栄益が龍造寺隆信を肥前国から逐ったときには栄益に加担したが、天文22年(1553)10月に隆信が復帰したのちに和睦した。しかし対立は止まず、天文24年(=弘治元年:1555)8月に攻められると筑前国怡土郡高祖城の原田氏を頼って落ち延びた。しかし弘治2年(1556)元日の未明に密かに帰還して急襲、旧領の一部を奪回している。
その後も龍造寺氏と抗争する近隣の小領主を支援して軍勢を派遣するなど、反龍造寺に徹している。山岳地を本領とする神代氏の軍勢は山岳戦に長けており、兵数に勝る龍造寺方の軍勢を幾度も撃退していることが知られる。弘治3年(1557)10月の鉄布(なうしき)峠の合戦においては、偶然に遭遇した龍造寺氏の重臣・小河信安を一騎打ちで討ち取った。
永禄4年(1561)9月の肥前国川上の合戦で龍造寺勢に敗れ、大村純忠を頼って逃れたが、同年12月には旧知の士の支援を得て復帰を果たした。
永禄5年(1562)に隆信と和し、永禄7年(1564)に家督を子・長良に譲って隠居した。
永禄8年(1565)3月15日、肥前国佐嘉郡畑瀬城で没した。55歳か。