相良義陽(さがら・よしひ(よしてる)) 1544〜1581

相良晴広の子。幼名は万満丸。通称は四郎太郎。初名を義頼。のち頼房と名乗る。
天文18年(1549)8月、世子(後継者)に定められ、天文24年(1555)、父・晴広の死を受けて12歳で家督を相続し、祖父である上村頼興の後見を受けた。
弘治2年(1556)2月、元服。またこの年の6月頃、菱刈氏と謀って大隅国大口を入手する。
翌弘治3年(1557)、叔父にあたる上村城主・上村頼孝、豊福城主・上村頼堅、岡本城主・上村長蔵の「上村3兄弟」が反乱を起こす(三郡雑説)。
永禄2年(1559)、球磨郡獺野原の内戦を経て球磨・芦北・八代の3郡を統率した。
永禄5年(1562)に日向国真幸院を入手。
永禄7年(1564)に将軍・足利義輝より「義」の一字を賜って名を義陽と改め、従四位下・修理大夫に叙任。しかし、この「義」陽の名乗りと修理大夫の官途拝領の際、豊後国の大名・大友宗麟が不快感を示して認めようとせず、公に「義陽」と名乗るのは天正5年(1577)頃よりである。
永禄10年(1567)には菱刈氏と結んで、島津氏と大隅国大口初栗野(羽月野)に戦って勝利するが、永禄12年(1569)の砥上の合戦で破れて大口を失った。
北の大友氏、南の島津氏といった大勢力からの圧迫を受けて所領の維持に苦慮し、情勢に応じて大友氏や島津氏への接近・敵対を繰り返す。
天正6年(1578)より本格的な肥後国侵攻を開始した島津氏と干戈を交えるが、天正9年(1581)に水俣を大軍に囲まれて敗色濃く、葦北郡の割譲と益城郡の甲斐氏を攻撃することを条件として、その幕下に屈した。
同年12月、肥後国益城郡の響ヶ原で甲斐宗運と戦い、討死した(響ヶ原の合戦)。38歳。法名は玉井院(のち柳江院)越江蓮芳。