甲斐宗運(かい・そううん) 1515〜1585

肥後国の菊池氏の出身で、阿蘇惟豊に属した。父は阿蘇(甲斐)親宣。宗運とは剃髪後の号(牧庵軒宗運)で、名は親直といった。民部大輔。
天文10年(1541)、肥後国益城郡の御船房行を討って御船城主となったという。
胆略は衆に優れ、阿蘇勢力を代表して大友宗麟と結んで強敵の島津氏に対抗し、没落した主家の再興に勤めた。
永禄8年(1565)、隈庄城内の甲斐一族分裂に関与。
天正6年(1578)の耳川の合戦後に離反した隈本の城氏や宇土の名和氏らと戦った。
天正7年(1579)6月頃には肥後国に侵攻を開始した龍造寺隆信に降り、天正9年(1581)には一族連名の起請文を送ると共に人質を出している。また同年末、島津氏の命により侵攻してきた相良義陽響ヶ原の合戦で討ち取った。
天正10年(1582)以降は八代を占拠した島津氏と対決。龍造寺氏への人質という枷に苦しみつつも島津氏との外交駆け引きにより、阿蘇氏勢力の維持に努めた。
天正13年(1585)7月3日、76歳で没す。一説には天正15年(1587)の羽柴秀吉による九州征伐後、新領主となった佐々成政に抗して一揆を起こし、敗れて殺されたともいう。