響ヶ原(ひびきがはら)の合戦

天正6年(1578)より本格的に肥後国への侵攻を開始した島津氏に対し、同国の球磨・八代・葦北3郡を領する相良義陽は近隣の阿蘇氏と結んで抗していたが、その攻勢を支えきれずに天正9年(1581)10月に葦北郡を割譲して降り、間もなく阿蘇氏領の益城郡御船城の攻撃を命じられた。しかし、この御船城の城主・甲斐宗運は義陽とは昵懇の間柄で、かつて八代の白木妙見社と阿蘇宮にそれぞれ不可侵を約した誓書を納めたという盟友同士であった。
島津氏の命を拒めば和議を破ったことになり相良氏の行末は望めず、応じれば宗運との信義に背くことになる。この二者択一に迫られた義陽は相良氏の存続を取り、御船城攻撃を決めたのである。

覚悟を決めた義陽は12月1日の早暁、軍勢を率いて居城の古麓城から阿蘇領へと向けて出陣したが、その途次、白木妙見社で戦勝祈願を行った。ここで宗運と取り交わした誓書を焼き捨て、自身の死を祈願したという。また、風に翻った旗が楠の枝に巻き付いて外れなくなるなど、出陣には不似合いなものがあった。
八代から沙婆神(鯖神)峠を越えて阿蘇領に侵入した相良勢は軍勢を割いて阿蘇方の堅志田城と甲佐城を攻めさせ、義陽自身は響ヶ原(響原、響野原とも)に本陣を布いた。家臣たちは響ヶ原は防戦には不向きであるため沙婆神に布陣するように勧めたが、義陽はこれを容れなかったという。
一方、この相良勢出陣の報を得た宗運は、それをにわかに信じなかったという。しかしそれが事実であることを知ると、阿蘇氏の将である宗運もまた、応戦態勢を取らざるを得なかったのである。
相良勢が攻めた堅志田・甲佐の両城はこの日のうち(一説には翌2日)に陥落したが、甲斐勢は2日の未明に出陣、間道を密かに通って響ヶ原へと向かっていた。この日は小雨が降って霧が立ち込めていたといい、宗運は領内から農民を動員して飯田山に旗を立てさせ、あたかも軍勢がそこに集結しているように見せかけておいたうえで軍勢を響ヶ原へと向かわせたのである。
このとき相良勢は軍勢の動きを捕えてはいたが、宇土城からの援軍と勘違いして見過ごしたという。
響ヶ原の台地に構えられた相良本陣では堅志田・甲佐城の攻略成って戦勝気分に浸っていたが、密かに周囲の藪に隠れて布陣を終えていた甲斐勢が、一斉に攻めかかった。この奇襲攻撃によって相良陣は混迷し、乱戦の中で義陽も討たれたのである。義陽は落ち延びることを勧める家臣の進言を退けて床几に座し、甲斐家臣・緒方喜蔵によって討ち取られたという。
大将を失った相良勢は、3百余人の戦死者を出して敗走した。

『南藤蔓綿録』によれば、この合戦ののち、義陽の首実検に臨んだ宗運は涙を流して合掌し、「約定を破ったからには儚く討たれてしまったことも是非もなし。しかし相良が堅固であったからこそ阿蘇も無異で我らも永らえることができていた。義陽公亡き今は頼るべき人もなく、我らも3年ほどのうちに滅びるであろう」と語ったという。