豊後国の大友宗麟と同盟関係にあった日向国の伊東義祐が天正5年(1577)1月、薩摩国を本拠とする島津義久勢と戦って敗れ、宗麟を頼って逃げてきた。宗麟はこれに応え、天正6年(1578)1月(4月とも)に3万の軍勢を送り、さきに島津氏に寝返ったばかりの日向国松尾(延岡)城主・土持親成を攻めさせた。このとき島津氏から松尾城への援軍はなく、簡単に奪い返されたという。勢いに乗った大友勢は日向国北部を平定したのち、いったんは豊後国へと引きあげた。
日向国においてさらなる所領拡大を目論む宗麟は8月にも出兵し、延岡の北1キロほどのところの務志賀(無鹿・むしか)に本陣を置いた。このときの宗麟の出陣は、一つには同盟軍・伊東氏の旧領回復ということ、もう一つには宗麟が日向国にキリシタン王国を樹立したいと考えていたからともいわれている。事実、このとき宗麟は妻・ジュリアや宣教師を連れ、十字架の旗を掲げた舟に乗って臼杵港から海路で日向国に向かっている。
大友勢の陣容は、本隊に吉弘鎮信・斎藤鎮実、以下、田北鎮周・佐伯惟教・立花道雪(戸次鑑連)・蒲池鑑盛らの諸隊が続き、その数は2万余。それとは別に田原親賢が率いる2万余の大軍があり、総数で4万3千とも5千ともいわれる。
この出陣に際し、軍師の角隈石宗が「戦勝の吉兆占いに凶が出たので出陣はやめた方が良い」と言い、さらに「去年現われた彗星の尾が西にたなびき、南西に向かって出陣すれば負け戦になる」と親賢に進言した。しかし親賢はこれを無視、さらに進撃の道々でも神社や仏閣を焼き払いながら進んだという。
9月18日、大友勢は日向国の中央部に位置する高城を囲んだ。高城は尾鈴山麓の台地にあり、その裾を南は小丸川、北は小丸川の支流である切原川が流れ、東西は絶壁という堅固な要害に阻まれた城であった。守るのは島津氏重臣・山田有信以下5百の兵である。このとき大友勢は『国崩し』と呼ばれる大砲を用い、高城めがけて砲弾を撃ち込んだ。当時の大砲の射程から見るところ砲弾が城にまで届いたかは定かではないが、威圧という目的では役目を果たしたであろう。が、大友勢の猛攻にも高城勢はよく持ちこたえ、なかなか落ちなかった。
そうこうするうちに1ヶ月が過ぎた。高城の兵糧が尽きかけた頃の10月22日、島津義久の率いる2万5千の軍勢が到着し、高城の南の佐土原に本営を構えた。
務志賀に滞在していた宗麟は、義久到着の報を得ると軍勢に指示を送って、高城の囲みを解いて耳川(別名:美々津川)の線まで撤退させた。その大友勢の布陣は、切原川の北岸に先陣の田北鎮周・佐伯惟教、それに蒲池鑑盛が助勢として控えた。その後ろに高城攻めの総大将・田原親賢、第2陣の田原親貫・斎藤鎮実・臼杵鎮次などが控える。
10月23日、大友勢は諸将を集めて宗麟不在のまま軍議を開いた。佐伯惟教や角隈石宗は、しばらくは島津勢の動きを見ながら宗麟の指示を仰ぐべしとの慎重論を唱えたが、田北鎮周は機先を制して勝運を開くべきだ、との開戦論を打ち出した。総大将である田原親賢は慎重論を支持したが、議論は紛糾し、決裂のまま終わった。
翌24日、持論を固持する鎮周は手勢を率いて切原川を渡り始めた。これを見た佐伯惟教隊も遅れまいとして渡河にかかる。
この動きを見た島津勢は、川で大友勢を討ち取ろうと川岸に鉄砲隊を配備し、三段の構えで掃射した。この攻撃に大友勢も渡河を断念し、10月27日には宗麟の命令を受けて耳川北岸に撤退して軍勢を立て直した。
11月5日、大友勢を追った島津勢は耳川南岸に布陣した。これを受けた大友勢は何度となく軍議を開いたが、ここでも意見はまとまらなかった。そして11月10日の払暁、吉弘鎮信・斎藤鎮実の強行渡河によって戦いの幕は切って落とされたのである。壮烈な白兵戦が展開され、この日の戦いでは大友軍の勇将として知られた斎藤鎮実が討死している。
戦いは翌11日に持ち越され、再度激戦が展開されたが、突然に田原親賢隊が崩れたことから大友勢に動揺が生じ、ついには大友勢の大敗となった。敗走する大友勢に島津勢が追い打ちをかけ、犠牲者の数は更に増えた。
この合戦での大友勢の死傷者は2万余人、うち戦死が吉弘鎮信・蒲池鑑盛など多くの武将を含めて3千5百余人という。
この敗戦で大友氏は、それまでその威勢を恐れて服していた九州6ヶ国の国人領主への求心力を失い、急速に衰退していくことになった。
またそれとは逆に、島津氏の急成長が始まり、その勇猛ぶりが知れ渡ることになった。