立花道雪(たちばな・どうせつ) 1513?〜1585

大友氏の重臣。戸次親家の子。幼名は八幡丸、長じて戸次鑑連(べっき・あきつら)と名乗る。左衛門大夫・伯耆守。豊後国大野郡鎧岳城主、筑前国糟屋郡立花城主。
戸次氏は大友氏第2代の大友親秀の子・重秀を祖とする譜代家臣の家柄であり、大友氏の庶家の血筋にあたる。
永禄4年(1561)から元亀2年(1571)の期間は重臣として大友宗麟(義鎮)の加判衆を務めており、その後も軍事能力に傑出した武人としても重く用いられた。
大永6年(1526)、戸次氏惣領の家督を継ぐ。
天文19年(1550)2月の二階崩れの変には宗麟に従い、その弟の塩市丸擁立派の入田親誠を誅伐、天文22年(1553)には宗麟の命を受けて菊池義武を肥後国相良氏のもとから護送、その途次に豊後国直入郡で生害させ、弘治3年(1557)には宗麟に叛いた秋月文種を討つなど、宗麟の覇権確立の大きな原動力となった。
天文23年(1554)頃、養子・鎮連に戸次氏の家督を譲る。
永禄年間初期より大友氏と毛利氏の抗争が顕著になるが、永禄4年には旧大内領を制圧するために門司に出陣し、毛利勢と対峙した(門司合戦)。
これよりのち、毛利元就の大規模な調略策によって立花鑑載・高橋鑑種秋月種実ら有力国人領主が相次いで大友氏に叛旗を翻しており、活動基盤を筑前国に移して毛利氏との攻防に専念することとなる。
永禄8年(1565)、毛利元就と通じて叛乱を起こした筑前国立花鑑載を鎮定、立花城を奪取。その後、中国地方から豊前・筑前国に侵入した毛利氏と対決。
永禄10年(1567)、秋月種実を古処山城に攻めたが、敗れて兵を退く(休松の合戦)。永禄11年(1568)には再び毛利氏と通じて謀叛を起こした立花鑑載を誅伐した。
永禄12年(1569)、肥前国佐嘉(佐賀)の龍造寺氏を制圧。5月には軍を転じて筑前国多々良浜で毛利軍の吉川元春小早川隆景らと激戦を展開した。この戦いでは明白な決着はつかなかったが、これよりのち毛利氏は九州より撤兵、実質的に大友氏と毛利氏の抗争は終息した。
元亀2年、筑前国の名家である立花氏の名跡を継ぎ、同年7月には立花西城の城督に就任。
天正3年(1575)、娘のァ千代に所領の一部を譲り、戦国史上初の女城主に据えた。またこの年に剃髪し、道雪と号す。
こののち、大友氏が日向国の伊東氏を支援したことを契機として島津氏との全面抗争に突入するが、天正6年(1578)の耳川の合戦で大敗を喫したこと、伸張著しい龍造寺隆信の勢力拡大などによって大友氏の勢力が衰退すると離反する領主が相次ぎ、天正7年(1579)には宗像・原田・麻生ら諸氏を鎮圧するために出陣した。
天正8年(1580)、豊後南郡衆の大友宗家への離反を憂慮し、9ヶ条の檄文を送る。
天正9年(1581)、高橋紹運の長男・統虎(宗茂)をァ千代の婿にもらいうけ、養子とした。
天正12年(1584)8月、筑後鎮圧のために高橋紹運らと共に出陣。高良山に在陣して猫尾城攻めの最中の13年(1585)に陣中で発病し、9月に死去した。生年は不詳で永正10年(1513)生まれの享年73、永正13年(1516)生まれの享年70とする説がある。
人柄は誠実で人望厚く、ことに部下に対しては篤く思いやった。また、独裁性の強い主君・宗麟に対しても誠実に諫言するなど、大友氏の中核に欠かせない人物であった。
かつて落雷を受けたために歩行が困難であったというが、戦場では輿に乗って将兵を叱咤激励し、健常者に劣らぬ精強な勇将であった。その勇名は諸国に鳴り響き、甲斐国の武田信玄も面会を望んだほどとも伝わる。