高橋鑑種(たかはし・あきたね) ?〜1579

大友家臣。一万田親敦の二男。一万田鑑相の弟。左衛門尉・三河守。号は宗仙。筑前国宝満城主、のちに豊前国小倉城主。
筑前国三原郡高橋を本拠とした高橋長種が嗣子なく没したのち、一万田家から入嗣して名跡を継いだ。
天文21年(1552)、大友宗麟の弟・晴英(のちの大内義長)が大内氏の家督を継いで周防国山口に入部することになったとき、これに従い奉行人となった。
弘治3年(1557)に大内氏が滅亡すると大友氏に帰参し、同年7月には大友氏に叛いた筑前国古処山城主・秋月文種の討伐に従軍。その戦功で筑前国三笠郡に2千町の所領を与えられた。のちに大宰府に移住し、永禄2年(1559)に大宰府の宝満山に宝満城、さらにその支城として岩屋城を築き、筑前守護代的地位を得るに至る。
しかし永禄10年(1567)6月、毛利元就や秋月文種の遺児・種実らと呼応して大友氏に叛いた。このとき立花道雪吉弘鑑理ら大友勢の追討を受けたが、他の反大友勢力と連携して宝満城に籠もって抵抗を続け、永禄11年(1568)7月の立花鑑載敗死、8月の秋月種実降伏後も耐え凌ぎ、毛利勢が九州戦線より撤退した永禄12年(1569)11月下旬に至って開城降伏し、実に2年5ヶ月にも及ぶ籠城戦を耐え抜いたとされるが、降伏時期を秋月種実と同時とする説もある。
この謀叛によって筑前国の所領は没収されたが、助命されて豊前国小倉城に移される。このときに出家し、宗仙と号す。
この大友氏に叛いた理由であるが、一説には絶世の美女と称された兄の妻を妾に望んだ宗麟が兄を誅殺したことによるといわれる。
天正6年(1578)、大友氏が日向国耳川の合戦で大敗して衰退に向かうと、これを機として翌天正7年(1579)に再び離反し、大友氏に与した杉重良を破り、さらに豊前国田川郡の香春岳城を奪取したが、同年中に死去した。