秋月文種(あきづき・ふみたね) ?〜1557

筑前国夜須郡古処山城に拠った国人領主。秋月種時の子。別称を種方・文衆とも。中務大輔。
秋月氏は大宰府府官の大蔵氏の一流であり、さらに祖を辿れば古代中国の漢王朝の血脈に連なるという。
文種ははじめ大内氏に属し、天文10年(1541)には大内義隆より幕府番衆に推挙されている。
大内氏の滅亡後は大友宗麟に属したが、旧大内領を併呑してさらに九州進出を目論む毛利元就と結んだため、弘治3年(1557)6月下旬頃より大友武将の立花道雪・田北鑑生・高橋鑑種・志賀親守らの率いる軍勢によって征伐を受けた。
文種は筑前国五箇山城主・筑紫惟門とも連携して古処山城に拠って防戦したが、7月12日に至って家臣・小野(あるいは古野)四郎右衛門の裏切りによって落城、戦死した。
嫡男の晴種も戦死しており、秋月氏は壊滅状態に陥ったが、のちには落城に際して落とした遺児らが大友氏を苦しめることになる。