豊後国大友氏の重臣。吉弘氏直の子。通称は太郎。名を「あきまさ」とも読み、鑑直とも称す。左近大夫・伊予守。豊後国国東郡筧城主。
吉弘氏の出自は、大友氏の祖である大友能直の子・田原泰弘の流れを汲み、同紋衆と称される大友氏の一族である。鑑理は大友義鑑・宗麟の2代に亘って仕えた。
天文3年(1534)4月、父・氏直とともに豊後国速見郡の勢場ヶ原で大内氏の武将・陶興房の軍勢と戦った。この戦いでは大友勢が辛くも大内勢を退かせたが、父を亡くしている。
弘治2年(1556)4月、肥後国に駐留していた大友氏重臣・小原鑑元が謀叛を企てたとしてその追討を命じられると、戸次鑑連(のちの立花道雪)らとともに出陣し、その鎮圧にあたった。翌弘治3年(1557)には大友氏に叛いた筑前国古処山城主・秋月文種の討伐に従軍したほか、永禄年間にも立花城の立花鑑載や宝満城の高橋鑑種、秋月文種の子である秋月種実など、安芸国の毛利氏と通じて大友氏に叛いた武将の鎮圧に、数年に亘って転戦した。
永禄12年(1569)4月、龍造寺隆信の拠る肥前国佐嘉城を攻めていた際に発病したというが、その病状などは不詳。数日を経て快方に向かったと見えて復帰している(佐嘉城の戦い:その1)。この佐嘉城攻めの最中に毛利氏の軍勢が立花城下に襲来したとの報告を得ると、龍造寺氏と和議を結んで軍勢を返して救援に向かい、吉川元春・小早川隆景らの率いる毛利軍を圧迫する(立花城の戦い)など、縦横無尽の活躍で主家の大友氏を多いに援けた。
また、弘治3年(1557)から元亀2年(1571)頃には吉岡長増・臼杵鑑速とともに大友氏の加判衆を務めて執政にもあたり、軍事だけでなく政事においても重要な地位に在った。
この元亀2年頃に死去したとみられる。