佐嘉(さが)城の戦い:その1

肥前国佐嘉郡佐嘉城主の龍造寺隆信は、龍造寺氏分家の水ヶ江龍造寺家の出身であったが、天文17年(1548)に龍造寺氏宗家(村中龍造寺家)の当主であった龍造寺胤栄が没すると、その後家を娶って宗家を相続した。
龍造寺氏はかつては少弐氏の麾下であったが、隆信の曽祖父・龍造寺家兼の時代に少弐氏によって壊滅の危機に晒されたという経緯もあり、少弐氏と敵対していた中国地方の大大名・大内義隆と誼を通じ、勢力を伸ばした。その一方で龍造寺家中には豊後国の大友宗麟に近かった龍造寺鑑兼を立てて大友氏の後援を得ようとする動きもあったが、隆信は天文22年(1553)にこれを降し、永禄2年(1559)1月には少弐冬尚を討ち、戦国大名として地位を確立したのである。
この間の天文20年(1551)9月、大内義隆は重臣の陶晴賢に討たれ、大内氏の新当主には大友宗麟の弟・晴英(のちの大内義長)が晴賢によって擁立されたが、義隆の恩顧を受けていた安芸国の毛利元就がこの大内氏と断交し、弘治3年(1557)4月に滅ぼしたのちは北九州に進出し、大友氏と対立するようになる。
毛利氏は大友氏に属しつつも不満を抱く九州の諸将に内応を募り、秋月・筑紫・高橋などの諸将がこれに応じ、龍造寺氏もまたこれに通じたため、大友氏は龍造寺氏を敵視するようになったのである。

筑前国の秋月文種や立花鑑載らの抗戦を鎮圧した大友宗麟は永禄12年(1569)1月に佐嘉城攻めを企図して軍勢を動かし、立花道雪吉弘鑑理・臼杵鑑速をして日田郡を経て筑後国の高良山に進ませた。宗麟自らは2月半ばには高良山の吉見岳に本陣を布き、味方の軍勢の参集を待ったが、宗麟は陣中で遊興に耽って出陣する気配もなかったため、道雪が諌めてようやく3将が佐嘉城に向けて進撃を開始したという。その兵数は、『隆信公御年譜』や『九州治乱記』では3万としている。
神埼郡城原の領主・江上武家は当初は龍造寺方に与していたが、大友軍が進撃してくればその経路にあたることもあり、前々から「大友軍が攻めてきたら合図の狼煙を上げるので、そのときは援軍を派遣してもらいたい」と約しており、大友軍の進撃を知った武種は約定の通りに狼煙を上げさせたが、援軍の派遣がなかったので大友方に降った。また、神埼郡山内の神代氏、島原半島の有馬一族、松浦党、小田鎮光ら隆信に反感を抱く肥前国の武将らも大友方に与したほか、宗麟の命を受けた筑後国の諸将も筑後川を越えて佐嘉に迫り、佐嘉城は海陸両面から包囲を受けることになったのである。
3月22日には立花道雪率いる隊が佐嘉城北方の春日原に陣し、吉弘鑑理は同じく北方の川上川の西、臼杵鑑速は東方の阿禰(姉)・境原に陣し、包囲網を狭める。これを受けて隆信は重臣を集めて軍議を開いた。籠城、降伏、他所への退去などに意見が分かれて軍議は紛糾したが、鍋島直茂の強い進言で籠城に決まったという。
龍造寺勢は佐嘉城の防備を固める一方で、4月6日に鍋島直茂・百武賢兼・小河信友・成松信勝らが佐嘉城外の植木・三溝などに打って出るなど抗戦に努めているが、兵力の差は如何ともしがたかった。
大軍の包囲を受けた佐嘉城は風前の灯火同然であったが、思いもかけない幸運に見舞われる。大友勢の大将のひとりであった吉弘鑑理がにわかに発病して陣から離脱したこと、さらには毛利氏の軍勢が筑前国の立花城下に着陣するという事態が起こったのである。立花城は博多を扼す要衝であり、大内氏にも毛利氏にも、財政・戦略的見地からも譲れない要地であった。
この佐嘉城攻めを早く落着させて軍勢を立花城の防衛に転じさせたいという大友氏、勝ち目の見えない抗争の落としどころを探っていた龍造寺氏の双方に和睦の機運が高まり、4月17日には城親冬を仲介者として和議が結ばれた。龍造寺氏から大友氏に人質を出していることからも龍造寺氏の降伏であることは明白であるが、毛利氏の間接的とも言うべき支援によって龍造寺氏は命脈をつなぎとめることができたのである。