肥前国神埼郡蓮池城主・小田政光の子。幼名は仁王丸。通称は新九郎。弾正少弼。
父・政光は天文22年(1553)10月より肥前国佐嘉郡佐嘉城主の龍造寺隆信に服属していたが、隆信が永禄元年(1558)11月に少弐冬尚の属城・肥前国神埼郡の勢福寺城を攻めたときの攻防戦(長者林の合戦)に従軍して討死を遂げた。しかしその直後の11月15日、隆信によって蓮池城を攻められて筑後国に逃れた。これは小田氏の少弐氏への忠義が篤かったことに加えて、長者林の合戦で、援軍を出さずに政光を戦死させたことを恨んで敵対されることを警戒したため、とされる。
翌永禄2年(1559)1月に旧領に復し、龍造寺氏に属して隆信の養女(実父は龍造寺胤栄)を娶った。
しかし永禄8年(1565)8月頃には龍造寺氏に敵対する神代長良(神代勝利の子)や大友宗麟と結んでおり、永禄10年(1567)には居城を肥前国小城郡の多久梶峰城に移すように隆信から命じられ、蓮池城には隆信の弟である龍造寺長信が入った。
永禄12年(1569)に大友氏が隆信の居城・佐嘉城を攻めた際、大友氏に属して参陣した(佐嘉城の戦い:その1)。翌年に大友氏が再侵攻した際(佐嘉城の戦い:その2)にも大友方として従軍し、佐嘉城包囲網の一端を担ったが、8月の今山の合戦にて戦況が覆ると鎮光は筑後国に出奔し、城主不在となった居城ならびに妻と養子(実父は隆信)は龍造寺氏の手に落ちた。
元亀2年(1571)4月9日、隆信に謀られた妻からの手紙によって佐嘉に召還され、弟・賢光とともに誅殺された。