肥前国佐嘉城主の龍造寺隆信は、北九州への進出を目論む毛利元就に通じたため、永禄12年(1569)3月より豊後国の大友宗麟に攻められて苦境に陥ったが、翌月に毛利氏の軍勢が大友領で筑前国の要衝・立花城攻めに動いたたことで和議の機運が高まり、窮地を脱した(佐嘉城の戦い:その1)。
宗麟は佐嘉城攻めに動員していた将兵を立花城の救援に差し向けたが、毛利氏の軍勢は同年閏5月に立花城を攻略。しかし大友勢は引き下がらず対陣を続けており、6月には毛利氏が九州に出兵している隙を衝いて、かつて毛利氏によって滅ぼされた尼子氏の尼子勝久やその遺臣らが蜂起して毛利領を蚕食し始めた。さらに宗麟はこの機に乗じて大内輝弘を援助して10月に周防国で蜂起させたため、この事態に毛利氏は、立花城の防衛を断念して11月に撤兵に踏み切るに至ったのである(立花城の戦い)。
この間、隆信は大友氏に属す小領主への侵略を進めており、さらには和睦時の条件で龍造寺方から大友方へ出された人質が逃げ帰ってしまったこともあり、後顧の憂いを払拭した宗麟は再び龍造寺氏の討伐を企てたのである。
永禄13年(=元亀元年:1570)3月、自ら大軍を率いた大友宗麟は豊後国日田郡を経て筑後国の高良山に着陣して本陣とし、立花道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速に豊前・豊後・筑前・筑後国の兵を率いさせて進発させた。この軍勢は3月27日に肥前国に入り、立花道雪率いる軍勢は佐嘉城の東方の阿禰(姉)・境原に、吉弘鑑理・臼杵鑑速の軍勢は北方の山野に3里に亘って布陣し、南方は筑後国の大友方兵船が筑後川の榎津を固めた。
また、島原半島の有馬氏も大友方として参陣し、その他にも隆信と反目していた江上武種や神代長良、小田鎮光といった国人領主らも大友方として参陣、その勢は6万とも8万とも称される大軍に膨れ上がったのである。
対する龍造寺方の兵力は、隆信の一族や重臣・鍋島氏の一族などわずか5千ほどといわれる。
隆信は当初、吉弘鑑理を通じて和平を申し込んだが鑑理はこれを受け付けず、さらには田尻鑑種を介して立花道雪にも申し入れたがこれもはねつけられ、降伏か抗戦の選択を迫られることになった。
しかし大友方は攻勢に出ようとはせずに遠巻きに佐嘉城を包囲するだけであり、4月23日には抗戦に一決した龍造寺方が城から東の巨勢・若宮に討って出て、特に鍋島直茂が立花道雪の陣を突き崩すなどの戦功を挙げており、5月には川を隔てて鉄砲の射ち合いに始まる合戦があったが、龍造寺方が戦功を挙げたようで、毛利氏の将・吉川元春は書状でその武功を賞している。
また、7月になると大友方は水軍を使って浮盃津や橋津の攻撃を試みているが、龍造寺軍の激しい迎撃の前に敗退し、それ以後は水軍の襲来はなかったようである。
その後も大友方による包囲は続けられたが、総攻撃というほどの規模の攻撃はなされなかった。しかし高良山の宗麟も業を煮やしたようで、一族の大友親貞に3千の兵を与えて佐嘉城攻めに向かわせるも、龍造寺軍は8月20日にこの大友親貞が陣していた今山に決死の襲撃を仕掛けて壊滅させ、意気を多いに挙げた(今山の合戦)。
この大友親貞軍を破ったとはいえ、未だ本軍は健在であったが戸次・臼杵は和議を結ぶことを考え始めたようであり、田尻鑑種を通じて隆信に和議を打診してきた。龍造寺方としても終戦とすることに異議はなく、10月1日に和議が結ばれたのである。