永禄10年(1567)、筑前国宝満・岩屋両城の城督を務める高橋鑑種が古処山城の秋月種実と結び、安芸国の毛利元就の支援を得て、主家である大友氏に謀叛を企てた。この事態を受けて大友宗麟は戸次鑑連(立花道雪)・吉弘鑑理・臼杵鑑速らに命じて鎮定にあたらせたが、9月の休松の合戦で秋月勢に大敗を喫するなど、戦果ははかばかしくなかった。
この情勢を見た立花城主・立花鑑載もまた高橋鑑種を通じて毛利氏に寝返り、永禄11年(1568)2月に大友氏と手を切った。大友氏第6代大友貞宗の子・貞載を始祖とする立花氏は筑前国における大友方の中心勢力であったが、永禄年間に入ると主家との確執が深まり、そこへ九州進出を目論む毛利氏から内応の誘いを受けていたのであった。
筑前国の要衝である立花城が毛利方となったことで、大友氏の領国であった筑前国の大半が毛利色に塗り替えられる事態になった。毛利氏はこの拠点を確保するために4月に8千の援兵を送っているが、大友氏もまた退勢を打破するために大軍を立花城攻めに投入しており、4月下旬頃より激しい攻防戦が始まった。
堅城を謳われた立花城を大友勢は攻めあぐねたが、鑑載の重臣・野田右衛門大夫が裏切って大友兵を城内に引き入れたため陥落、逃走を図った鑑載も追いつめられて自刃した。7月23日のことといわれる。
立花鑑載が立花城で抗戦していた頃、毛利氏は伊予国の河野氏を支援して四国に出征しており、6月に帰国した吉川元春・小早川隆景は休む間もなく九州戦線へ出陣したが、立花城の救援は果たせなかったのである。しかし大友氏への反抗を続ける高橋鑑種や秋月種実ら反大友勢力の支援を続けるためには立花城の確保は必須であった。
立花城を落とした大友勢は守備兵を残し、主力を宝満・岩屋・古処山城を攻めるために陣替えさせ、ついで永禄12年(1568)1月には龍造寺隆信の拠る佐嘉城を攻めるため、肥前国に向かわせている(佐嘉城の戦い:その1)。
一方、後れを取りながらも豊前国の門司・小倉から九州に上陸した毛利軍は吉川元春・小早川隆景らの率いる大軍が立花城に向かい、3月には厳重な包囲態勢を築いて兵糧攻めにし、ついで4月には元就自身が孫の輝元を伴い、督戦するために本営の長府(長門国府)に出陣したのである。
立花城将からの注進で事態を知らされた宗麟は、龍造寺氏と和を結び、佐嘉城を包囲していた軍勢を立花城の救援に向かわせる。こうして4月中旬には中国地方の覇者・毛利元就と九州の雄・大友宗麟が対峙することになったのである。どちらの陣営にとってもこの立花城は譲れない要衝であった。
立花城を包囲する毛利軍は多々良・香椎周辺に布陣し、大友勢は多々良川を挟んだ筥崎にて対陣する。この両軍で本格的な戦闘が開始されたのは5月中旬であった(多々良浜の合戦)。この合戦では大友方が優勢であったが立花城の包囲を解くには至らず、立花城をめぐる戦況は膠着した。しかし立花城内の食糧事情は逼迫しており、とりわけて渇水に苦しめられていた。事ここに至って閏5月3日、立花城は開城したのである。
しかし後詰の大友軍は依然として退却しなかったため、逆に毛利軍が北九州に釘付けされることになり、膠着状態が続いた。
そして6月、毛利軍にとって全く予期せぬ事態がもちあがる。永禄8年(1565)の尼子氏滅亡後、京都に逃れていた尼子遺臣・山中幸盛らが尼子勝久を擁して尼子氏を再興、織田信長の援助を受けて出雲国に攻め込んできたのである。しかもそれだけでなく、10月11日には大内氏の遺族である大内輝弘が宗麟の援けを得て周防国の秋穂浦に上陸、その翌日には山口に侵攻して毛利軍の背後を脅かしたのである。
大友勢と尼子勢による挟撃を恐れた元就は、ようやく陥落させた立花城に乃美宗勝ら一部の守備兵を残して撤退することを即断、10月15日には出征軍を召還して大内輝弘を攻めることにした。
この毛利勢の急反転に大内軍は瓦解し、輝弘が25日に茶臼山で自刃したことで当面の危機は免れることができたが、立花城も12月28日に開城を余儀なくされ、筑前・豊前国の諸領主らも大友氏に降伏し、北九州における毛利氏の勢力が失われることになったのである。