大内輝弘(おおうち・てるひろ) 1520?〜1569

大内政弘の孫。大内義興の弟・大内高弘(別称を大護院尊光)の子。大内義隆の従兄弟にあたる。通称は氷上太郎、太郎左衛門。
高弘と輝弘を同一人物とする史料もあるが、活動年代から見て父子であるとする説が有力である。
高弘は義興に叛意を抱いたが露見して豊後国に逃れ、大内氏と対立していた大友氏の庇護のもとに所領を給せられ、家臣も有していた。
大内氏の滅亡後、大内氏遺領の豊前・筑前国をめぐっての毛利元就大友宗麟の抗争は永禄11年(1568)に激化し、筑前国立花城などをはじめとして各地で合戦が展開されていた。その最中の永禄12年(1569)10月11日、輝弘は大友宗麟より授けられた軍勢を率い、九州出征に兵力の大半を割いていた毛利氏の背後を衝いて周防国吉敷郡の秋穂浦に上陸、大内遺臣を糾合して翌日にはかつて大内氏の別邸だった築山屋形を占拠した。
この後は周防国高嶺城(別称を鴻峰城)を包囲。城代・市川経好の妻の防戦に阻まれて抜くことができなかったが、この輝弘の挙兵は毛利氏に少なからず動揺を与え、結果的には毛利勢を九州より撤兵させる大きな要因となった(立花城の戦い)。
しかし鎮定のために吉川元春ら毛利勢が九州から引き返してきたことを知ると大内勢は戦意を失って瓦解、輝弘も小勢を率いて山口より逃亡したが、毛利勢の追撃を受けて富海(とのみ)の浮野峠や茶臼山などで抗戦した末の10月25日、鎮定されて自害した。