大友貞宗(おおとも・さだむね) ?〜1333

豊後国大友氏第6代。第4代・大友親時の子。第5代・大友貞親の弟。母は戸次時親の女。通称は孫太郎。従四位下・左近大夫将監・近江守。豊後守護。
正安元年(1299)4月、兄の貞親とともに、鎌倉幕府より鎮西引付衆に任じられる。
嘉元4年(1306)頃に大友氏第6代の当主となる。
嘉暦元年(1326)に出家して具簡と称し、直庵と号す。
鎌倉時代末期の正慶2:元弘3年(1333)に討幕の機運が高まり、後醍醐天皇の皇子・護良親王から挙兵を求める令旨が下されるとこれに応じ、少弐貞経菊池武時阿蘇惟直らとともに鎮西探題・赤橋(北条)英時を襲撃することを企てた。
同年3月には鎮西探題の招集に応じて筑前国博多の探題館に出仕し、おそらくはこの陣中において、五男の千代松丸(のちの大友氏泰)を家督継承者に指名して所領や豊後守護職などを譲る旨の譲状を認めていることからも、決死の覚悟で臨んだことが窺えるが、3月13日に菊池武時が決起すると、貞宗は少弐貞経とともに約束を違えてこれに応じなかったため、孤軍で襲撃に及んだ武時を戦死させる結果となった(菊池合戦)。
しかし同年5月7日には天皇方に転じた足利尊氏が京都の六波羅探題を陥落させ(京都合戦)、この尊氏からの檄に応じて少弐貞経・島津貞久らとともに天皇方として起ち、5月25日に鎮西探題を陥落させた(博多合戦)。
この3日前の22日には新田義貞率いる軍勢が相模国鎌倉を制圧して鎌倉幕府を滅亡に追い込み(鎌倉の戦い)、6月5日に還京した後醍醐天皇が建武政権を樹立させると、それまでの勲功を賞されて豊後守護職を安堵されている。
その後に上洛したが、同年12月3日に京都で病没した。法名は具簡。