鎌倉幕府の九州における支配拠点である鎮西探題の置かれていた博多は、正慶2:元弘3年(1333)3月13日に菊池武時らの襲撃を受けるも、撃退に成功した(菊池合戦)。
筑前守護であった少弐貞経は、この菊池合戦に際して大友貞宗とともに菊池武時と密約を結んで鎮西探題を襲撃する手筈になっていたが、決行間際の土壇場になってその密約を反古にして武時を裏切った。しかし武家の声望を集めていた足利尊氏が4月29日に後醍醐天皇方としての旗幟を鮮明にしたことで討幕の機運が高まったと判断し、今度は後醍醐天皇からの綸旨を大義名分に、大友氏や島津氏、ならびに九州の地頭・御家人らとともに、鎮西探題の襲撃を計画したのである。
貞経がいつ頃より探題襲撃を企図していたのかは定かではないが、はじめ幕府軍として畿内に出征していた尊氏が後醍醐天皇方へと転じたこと、5月7日に六波羅探題が陥落したとの報は数日を経ずして九州まで伝播し、これが諸将を討幕へと奔らせる決め手となったことは間違いない。
そして5月25日、探題館は九州のほぼ全域から参集した武士たちの総攻撃を受け、探題・北条(赤橋)英時以下の一族・被官のことごとくが自害して滅亡した。松浦党・草野・山鹿・宗像の諸氏は比較的遅くまで探題方に留まっていたが、最終場面ではほとんどが探題を見限ったという。
この3日前の5月22日には鎌倉幕府の本拠である鎌倉も新田義貞らの軍勢によって攻略され(鎌倉の戦い)、鎌倉幕府は滅亡している。討幕なった後醍醐天皇は6月に入京、ここに建武政権が樹立した。この政権下において貞経は従前の筑前守護に加え、豊前守護職をも与えられたのである。