小原鑑元(おばら・あきもと) 1514?〜1556

大友家臣。小原右並の子。通称は神五郎・四郎左衛門尉。遠江守。入道して宗惟と号す。
大友氏当主が義鑑の時代には加判衆の地位に在り、天文19年(1550)2月の義鑑から嫡男・義鎮(宗麟)に宛てられた遺言状(『大友義鑑条々』)に田北鑑生・一万田鑑相・臼杵鑑続(あるいは鑑速)・吉岡長増と共に鑑元の名も挙げられているが、加判衆内での序列は下位であった。
同年以来、菊池義武征伐のため肥後国に出陣。同年6月、義鎮は帆足右衛門大夫・野上左衛門大夫ら玖珠郡衆に対し、鑑元への協力を賞している。
天文20年(1551)6月、義鎮から肥後に在国して大友武士団の糾合をはかるよう指示を受ける。
しかし大友氏の同紋衆(大友氏宗家の庶家)に偏重される政策に反発を抱き、弘治2年(1556)4月、他姓衆の本庄新左衛門尉・中村新兵衛尉・佐伯惟教らと結んで謀叛を企てたとして追討を受けた。鑑元らは肥後国関城(南関城)に逃れたが、宗麟の命を受けた立花道雪・斎藤鎮実らに攻められ、5月8日の総攻撃を支えきれずに打って出て討死を遂げた。43歳か。