高橋紹運(たかはし・じょううん) 1548?〜1586

大友氏の一族・吉弘鑑理の二男。幼名は千寿丸。通称は孫七郎。初名は吉弘鎮理(しげまさ)。主膳正・三河守。実名は鎮種(しげたね)、紹運は号。妻は斎藤鎮実の妹。立花宗茂・直次の実父。
永禄12年(1569)、大友氏に叛いた高橋鑑種が追放されたあとに高橋氏の名跡を相続して筑前国三笠郡の宝満・岩屋両城の城主となる。三笠郡を中心とした筑前国南部の軍事・行政権を掌握、統治にあたった。
天正7年(1579)に筑前国において秋月種実・原田信種・宗像氏貞らが叛乱を起こした際には立花道雪とともに鎮圧にあたったが、失敗した。
天正9年(1581)、子の宗茂が立花道雪の婿養子となり、紹運は道雪とともに筑前国の反大友勢力を制圧した。
天正12年(1584)、筑後国に出陣して猫尾城を攻めたが、このとき道雪が病没したため帰国。この間、留守中に筑紫広門が宝満城を占領したが、二男・直次の妻に広門の娘を娶わせるという婚姻政策をもって、広門と和議を結んでいる。
羽柴秀吉による九州征伐に先立つ天正13年(1585)、薩摩国の島津勢が大挙して筑前国に侵入すると、実子の立花城主・宗茂の楯となるために岩屋城に島津勢を引きつけた(岩屋城の戦い)。紹運は寡兵の岩屋城をよく守り、降伏勧告にも応じなかった。
しかし翌天正14年(1586)の7月に島津勢が大攻勢に出ると27日に至って櫓に登り敵味方の見守る中、残余の将兵50余名とともに自刃した。39歳か。
この岩屋城の戦いにおいて、敗れはしたが島津勢に大打撃を与えたことが、秀吉による九州征伐を容易なものにしたともいわれる。