筑紫広門(つくし・ひろかど) 1556〜1623

姓は『つくし』と読むが、『ちくし』と読む文献もある。
筑後国上妻郡の国人領主。筑紫惟門の子。肥前国基肄郡勝尾城主。別称を義冬。左馬頭・上野介。号は夢庵。
家督を相続したのは永禄10年(1567)とみられる。
はじめ豊後国の大友氏に属したが、大友氏が島津氏との戦いに敗れて勢力が衰退すると、龍造寺隆信秋月種実らと共に大友氏と敵対した。
こののちより岩屋城をめぐって城主・高橋紹運と干戈を交えており、天正7年(1579)1月と天正11年(1583)2月の2度に亘って岩屋城を攻めているが、敗退している。しかし天正13年(1585)9月、紹運が筑後国に出兵している間隙を衝いて岩屋城の奪取に成功。のち、娘を紹運の子・高橋(立花)直次に嫁がせることで和議を結び、岩屋城を返還した。これと同時に大友氏に帰属したと見られる。
天正14年(1586)7月、北上する島津勢に勝尾城を攻められて捕えられたが、同年9月に羽柴秀吉九州征伐の軍勢が到来するとこの隙に乗じて逃亡し、軍勢を集めて三笠郡の五箇山城を奪った。この功で天正15年(1587)5月に秀吉より筑後国上妻郡に1万8千石の所領を与えられた。
文禄慶長の役にも出陣している。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役においては西軍に属したが、西軍が敗れたため戦後に所領を失った。
のち、剃髪して夢庵と号し、加藤清正のもとに身を寄せた。
元和9年(1623)4月23日死去。68歳。
なお、弟の茂成ものちに広門と名乗っている。