新納忠元(にいろ・ただもと) 1526〜1610

島津家臣。父は新納祐久。通称は次郎四郎。刑部大輔・武蔵守。入道して拙斎と号す。薩摩国伊佐郡大口・肥後国御船地頭。
智勇をもって聞こえた武将で、樺山善久と共に島津家の柱石と称され、島津義久の側近を務めた。
天文7年(1538)に島津貴久に謁し、以来、義久・義弘忠恒に仕えた。
永禄5年(1562)、大隈国横川城に真幸院領主の北原勢介・新助父子を、11年(1568)には薩摩国馬越城に菱刈隆秋を攻め、翌年(1569)には菱刈氏の居城・薩摩国大口城を落城させた。その戦功により、大口の地頭となる。
天正2年(1574)の肝付氏との抗争においては、肝付兼亮の武将・安楽兼寛の居城である大隈国牛根城の攻防のときに自ら人質の交換として安楽氏のもとへ赴き、兼亮に島津氏への盟書を呈して帰順させた。
天正8年(1580)以降は肥後国経略の中心となり、9年(1581)には水俣城を攻めた。
天正12年(1584)の沖田畷の合戦においては将兵を叱咤して龍造寺隆信の本陣に突入させて、大いに切り崩した。
天正14年(1586)以来の大友攻めに際しては島津義弘に従って転戦。
天正15年(1587)、羽柴秀吉九州征伐軍が到着すると、忠元は徹底抗戦を主張したが、降伏を決した当主・義久に諭されてやむなく秀吉に謁見したという。このとき剃髪、入道して拙斎と号した。
文禄慶長の役の際には留守を預かった。
古今和歌集を愛誦するなど学芸・和歌にも長じていた。九州征伐の決着後に秀吉に謁した際、秀吉に「まだ我に敵対するか」と問われ、「主君の義久が立ち上がるのなら何度でも敵対する」答えた。このやり取りを見ていた細川藤孝が「鼻のあたりに松虫ぞ鳴く」と(威勢が良いと揶揄して)詠んだところ、「上髭をちんちろりんとひねりあげ」と、上の句を詠んで返したという逸話を残す。
家臣の教育にも努め、『二才咄格式定目』という教育書を著した。ほか、伝記に『新納忠元勲功並家筋大概』がある。慶長15年(1610)12月3日、大口にて没した。85歳。法号は耆翁良英庵主。鹿児島県大口市原田の忠元神社に祀られている。