島津忠恒(しまづ・ただつね) 1578〜1638

島津義弘の三男。初名を忠恒、のちに家久と名乗った。幼名を米菊丸。通称は又八郎。陸奥守・薩摩守・大隈守・左少将・中将・参議・従三位・権中納言。初代の薩摩藩主。
天正4年(1578)11月に日向国加久藤に生まれ、長兄は早世、文禄の役に従軍して朝鮮に渡海した次兄・久保も文禄2年(1593)9月に病死したため、翌文禄3年(1594)に久保の未亡人・亀寿(島津義久の娘)を娶って島津宗家の継嗣となった。
その後に文禄の役に出陣、同年10月末には朝鮮の巨済島にて父・義弘と合流。
文禄の役の休戦後も巨済島に駐留した。続く慶長の役では慶長3年(1598)秋の泗川城攻防戦において、20万とも称される明国の大軍を寡兵で破って撤退させるという大功があり、勇名を馳せた。
慶長4年(1599)に帰国、従四位下・左少将に任じられる。
同年3月9日、かねてから専横の振る舞いが強かった重臣・伊集院忠棟を京都の伏見屋敷で誅し、それがきっかけとなって忠棟の子・伊集院忠真が日向国で叛乱(庄内の乱)を起こすと帰国し、その鎮圧にあたった。
この叛乱は慶長5年(1600)3月に至って落着するが、その事後処理や国内統治のためか国元を動かず、自身は関ヶ原の役には参陣しなかった。しかし、京都に参勤していた義弘が敗れた西軍陣営に属していたために島津氏存亡の危機に陥ったが、重臣を派遣して弁明に努め、慶長7年(1602)に徳川家康から赦免の内意を得ると義久の反対を押し切って上洛し、同年暮れに謁見を果たした。
また、この上洛の途次に、かつて叛いた伊集院忠真を誅殺している。
同年、鹿児島城を築いて移った。
慶長11年(1506)6月16日、徳川家康に謁して松平の家号を許され、諱を与えられて家久と名乗る。
慶長14年(1609)2月に樺山久高を大将とする軍勢を琉球へ派遣し、4月に尚寧王を降した。これにより琉球を薩摩藩の属領とした。この琉球侵攻の理由は、他藩と琉球との関係を排除し、自らの支配下に置くことで琉球への独占的地位を維持するためだったとされる。慶長18年(1613)には奄美大島・喜界島・沖永良部島・与論島・徳之島を割譲させ、直轄領としている。
寛永元年(1624)から妻子を江戸に居住させ、参勤交代制の先駆けとなった。また鹿児島城(鶴丸城)を修築し、城下町や港湾の整備を行うなど民政にも意を尽くした。学問を重んじ、和歌や連歌を好み、茶道や書道もよくしたという。
寛永15年(1638)2月24日死去。享年61。法名は慈眼院花心琴月大居士。