島津久保(しまづ・ひさやす) 1573〜1593

島津義弘の二男。幼名は万寿丸。通称は又一郎。
長兄が早世していたため、天正18年(1590)頃に男児のなかった伯父・島津義久の娘を娶って島津宗家の後継者となる。
天正15年(1587)、羽柴秀吉による九州征伐において島津氏が降伏した際、人質として上洛した。またこのとき、日向国諸県郡のうちで1千4百町歩を安堵されている。
初陣は天正18年(1590)の小田原征伐、秀吉に随行しての出陣であり、大雨で増水した富士川の急流を敵地へと向けて一騎駆けに渡り、勇名を馳せた。
文禄の役には父・義弘と共に第4軍に属して渡海したが、文禄2年(1593)9月8日、朝鮮の巨済島(唐島)で病死した。法名は一唯恕参大禅定門。