伊集院忠真(いじゅういん・ただざね) 1576?〜1602

薩摩国島津氏の重臣。島津氏の重臣でありながらも羽柴秀吉から知行地を与えられた伊集院忠棟の嫡子。通称は源次郎。
妻は島津氏第17代当主・島津義弘の娘(島津忠恒の同母妹)。
文禄元年(1592)からの文禄の役には、父・忠棟の名代として島津義弘の軍勢に属して出征したが、文禄3年(1594)の夏に病にかかったため帰国している。
続く慶長の役にも出陣し、とくに慶長3年(1598)9月から10月にかけての泗川城の戦いで活躍した。
帰国後の慶長4年(1599)3月9日、京都に参勤していた父の忠棟が、主家に叛意を企てたとの理由で島津忠恒に誅伐されたことを受け、同月中には所領の日向国庄内地方の都城に籠もって島津氏に叛いた(庄内の乱)。このため6月より島津氏や、徳川家康によって派遣された豊臣政権軍によって追討を受けるが、よく支えた。
しかし物量に勝る島津・豊臣政権軍によって支城が陥落させられていくと、家康から派遣された山口直友の仲介を容れて慶長5年(1600)2月末頃に和議を結んだ。このとき所領は没収されたが、改めて薩摩国頴娃(えい)に1万石の知行地を与えられた。
しかし島津忠恒の上洛に従っての慶長7年(1602)8月17日、その道中の日向国野尻で誅殺された。同日に3人の弟や母もそれぞれ違う場所で殺害されており、反乱分子として粛清されたことが明らかである。