尚寧(しょう・ねい) 1564〜1620

琉球王国の尚円王統(第二尚氏)の第7代。尚懿の子。母は先代の王・尚永王の妹。妻は尚永王の娘。童名は思徳金。1589年(天正17)に尚永王のあとを継いで即位した。
薩摩国の島津氏や明国と交易を行い、琉球諸島を治めた。1591年(天正20=文禄元)には島津氏を介して文禄の役出陣の要請を受けているが、いくらかの兵糧を供出することで拒否している。
1599年(慶長4)には明国に請封使を派遣するが、羽柴秀吉による文禄・慶長の役による影響などのため、冊封を受けたのは1606年(慶長11)のことだった。
だが、かねてから琉球王国を自領へ併呑しようと目論む島津忠恒(家久)は、1609年(慶長14)に徳川家康の許可を得て樺山久高以下3千の琉球侵略軍を編成、4月3日、首里城へと迫った。尚寧王は精強な軍勢を持たなかったのでほとんど抵抗することもなく同月5日、城を出て和を請うた。
尚寧王は捕虜となって薩摩国へ送られ、1610年(慶長15)9月、藩主の忠恒に伴われて駿府の家康、ついで江戸の将軍・秀忠に謁した。1611年(慶長16)に至って帰国を許可されるが、琉球王国は薩摩の付属国とされた。
1613年(慶長18)、忠恒によって奄美大島・喜界島・沖永良部島・与論島・徳之島を割譲され、沖縄本島から八重山島までを安堵されたが、その石高は8万9千余石に過ぎなかった。さらに「島津氏の征討は理由のないものでなく、昔から島津氏の付庸であったにも関わらずに背いた。そのために征討されたので仕方のないことである。しかし島津氏の御厚情により沖縄本島以南を知行として与えられた。よって子々孫々までその御厚恩は忘れない」という内容の起請文を書かされたという。対外的には王国の形のみの保持を許されたが、実質的には江戸幕府と島津氏の統治下に置かれたのである。
以後、1872年(明治5)に至るまで琉球王国は島津氏の支配下に置かれ、過酷な収奪を受けることになった。
1620年(元和6)9月19日に没した。神号は日賀末按司添。死んでも王家の墓に入ることを遺言で拒否したという。