島津貴久(しまづ・たかひさ) 1514〜1571

薩摩国の戦国大名。伊作島津氏出身の島津忠良の嫡男。母は島津成久の娘。幼名は虎寿丸。通称は又三郎・三郎左衛門尉。従五位下・修理大夫・陸奥守。
大永6年(1526)11月に島津氏本宗家の島津勝久の継嗣となって鹿児島に赴き、島津氏の家督と薩摩・大隅・日向守護職を譲られるが、のちに勝久が権臣・島津実久に唆されて変心して鹿児島に復帰してきたため薩摩国田布施に退き、父・忠良とともに勝久や実久と戦う。
天文8年(1539)3月の紫原の合戦で実久を破って南薩地方の支配を確固たるものとし、天文19年(1550)12月には伊集院一宇治城から、守護の居住地である鹿児島に新たに内城(御内城:みうちじょう)を築いて入り、領内経営に努めた。
この間、鉄砲の実戦使用、ザビエルが鹿児島に上陸すると謁見してキリスト教の布教を許したり、琉球王・尚元との修好など積極的な外交政策を取った。
ただキリスト教の布教については、領内の不安定をもたらす事を理由として、のちに禁止した。その影響を受けてか、南蛮貿易は思うような成果があげられなかったようである。
軍事政策では、天文年間の末頃より大隅・日向国方面へ向けて所領の拡大を図り、戦国時代の大名としての島津氏の基礎を築いた。
永禄7年(1564)に陸奥守に任官。
永禄9年(1566)に出家し、伯囿と号した。この年の2月に嫡男・義久に家督を譲っている。
元亀2年(1571)6月23日、加世田で死去。58歳。