島津忠長(しまづ・ただなが) 1551〜1610

島津氏の重臣。名の読みは「ただたけ」ともされる。島津貴久忠将の弟で薩摩国鹿籠を領した島津尚久の子。天文20年(1551)7月17日に生まれ、幼名は鎌菊丸。通称は又五郎。右馬頭・図書頭。紹益と号す。島津氏16代当主・島津義久とその弟・義弘らの従弟にあたる。
天正6年(1578)に大隅国串良の地頭(領主)、天正11年(1583)には島津氏老中(家老)に就任。
軍事面において顕著な働きを見せており、天正4年(1576)8月の日向国高原城の戦い、天正6年(1578)11月の耳川の合戦に従軍して戦功を挙げ、天正12年(1584)3月の沖田畷の合戦には島津家久隊の副将として参陣し、2万5千の龍造寺隆信勢を3千の兵力で壊滅させた。また、天正14年(1586)7月の岩屋城の戦いにおいて名将・高橋紹運を降すなど、島津氏の勢力伸張に大きな貢献を果たした。
文禄慶長の役では島津義弘・忠恒父子に従軍してよく補佐し、慶長の役における慶長3年(1598)10月の泗川新城の戦いにおいては、義弘らが打って出たあとの泗川新城を寡兵でよく守って明の大軍を撃退しており、帰国後に浅野長政が義弘に戦勝を祝したとき、「戦功の第一は忠長にある」と称揚された。
軍役を勤めるだけでなく政務もよく担った。島津氏が豊臣政権に屈服した後には上洛して参勤する当主級の者に随行したり、朝鮮出陣中の慶長元年(1596)11月には忠恒の意向を受けて一時帰国して国政に携わるなど、信任が厚かった。
慶長4年(1599)の庄内の乱鎮定にも参陣している。
関ヶ原の役で主力決戦が決着した後の慶長5年(1600)10月、西軍で肥後国宇土城主の小西氏の援軍要請を受けて東軍の加藤清正所領の肥後国佐敷城を攻撃したといい、のちの和平交渉においてこのことを清正からあげつらわれている。同年11月に島津討伐軍(九州の旧東軍)が肥後国水俣にまで南下してくると、肥後・薩摩国境付近の出水に在番し、侵攻に備えている。
和平交渉が進展を見せ始めた慶長7年(1602)1月には新納旅庵とともに上洛し、2月に徳川家康に謁見。島津氏の使節として、義弘は行きがかりから西軍に属すことになった顛末を弁明し、好感触を得ることに成功した。同年12月に忠恒が家康に謁するに際しても同行している。
慶長15年(1610)11月9日死去。享年60。法名は大徳山宗功寺殿既成宗功庵主。
慶長5年(1600)12月に薩摩国祁答院などに所領を加増され、同月に宮之城虎居城に移って宮之城島津氏の祖となった。