島津忠将(しまづ・ただまさ) 1520〜1561

島津氏垂水家の祖。島津忠良の二男。島津貴久の弟。幼名は菊寿丸。通称は又四郎。名を政久とも。右馬頭。典厩とも称された。
天文17年(1548)、島津氏が大隅国清水城主の本田薫親を日向国に逐うと清水城を預けられ、その周辺地域の統治を担う。
天文23年(1554)から弘治3年(1557)にかけての大隅国蒲生氏の攻略戦(大隅合戦)には、主に軍事面で兄の貴久を支えて活躍した。
通説では、この大隅合戦の緒戦となる岩剣城の戦いにおいて国内で初めて種子島銃が実戦に使用されたとされているが、忠将は岩剣城の戦いの前段となる天文23年9月の脇元での交戦で、島津氏として最初に種子島銃を実戦で用いている。
その後の弘治元年(1555)3月から4月にかけての帖佐城の戦いや弘治3年4月の蒲生城への総攻撃にも従軍して武功を挙げた。
しかし永禄4年(1561)7月2日、肝付兼続の属城・大隅国廻(めぐり)城攻めにおいて、竹原山で戦死した。享年42。法名は心翁大安居士。