慶長5年(1600)6月、豊臣政権の五大老・徳川家康は、同じく五大老のひとりである陸奥国会津若松城主・上杉景勝を「謀叛の疑いあり」として討伐するために出征した(会津上杉征伐)。
しかし家康が軍勢を率いて畿内を離れている虚をついて、家康と対立していた石田三成が豊臣秀頼を擁して挙兵した(関ヶ原の役)。これを知った家康は、会津征伐途次の下野国小山にて軍議を開いて従軍諸将に去就を問うたところ、福島正則(または上条政繁)の発言をきっかけに、この会津征伐の軍勢をもってして三成を討つことに一決したのである(小山評定)。
ここに家康派(東軍)・反家康派(西軍)の色分けがなされ、国内を二分する未曾有の大乱が勃発したのである。
近江国大津城主・京極高次は会津征伐には従軍していなかったが、会津征伐に出征する途次の家康を6月18日に大津で饗応しており、その際に家老・山田良利を家康に同道させている。このときに家康と高次は「不慮の事態に備えて」密約を結んだといい、彼はおそらくは人質の意味であったのだろう。その後も高次は家康に京都や大坂の状況を知らせるなどしており、明らかに家康方の立場であった。
しかし7月に石田三成ら西軍陣営が大坂城に居す豊臣秀頼を擁して決起すると、秀頼の使者と称する朽木元網に人質を求められたため子・熊麿を大坂に送り、自身は表面上は西軍に与することを装って元網と共に北陸戦線へ向かったが、北陸では高次らの到着以前に前田利長勢が西軍の山口宗永・丹羽長重らを鎮圧していたため(大聖寺城の戦い、浅井畷の合戦)益なく、大谷吉継の指揮のもと、集結しつつある東軍に備えるために美濃国に侵出することとなった。
しかし高次は9月3日に至って進路を転換、大津城に帰還すると徳川氏重臣・井伊直政に密書を送って西軍を大津城で防衛することを告げ、旗幟を鮮明にしたのである。
この高次の転身を知った西軍陣営は、大坂から美濃国大垣城に向けて行軍途中にあった立花宗茂・筑紫広門らの軍勢を大津城に差し向けるとともに、毛利元康を大将とする大津城討伐軍を派遣した。また、これと並行して使者を送って高次の翻意を促したが成らず、8日より本格的な城攻めが開始されたのである。
西軍は毛利元康を大将、小早川秀包を副大将とし、立花宗茂・桑山一晴・筑紫広門・伊東祐兵・宗義智ら1万5千の兵をもって大津城攻めに臨んだ。対する大津城の兵力は3千ほどであった。
当時の記録に「鉄砲の轟音は地を揺るがし、その硝煙は霧のようにたちこめ、城下町は焼き払われ」とあるように西軍の攻撃は苛烈を極め、連日に亘って昼夜の区別もなく続けられた。
総攻撃は13日に定められていたが、その前日に大津城から放たれた忍者が毛利の陣所から旗を盗んできたので城壁に晒していたが、攻囲軍にあった立花宗茂がその旗を見て毛利勢に先を越されたと思い、さらに激しく攻め立てたという。
この日の夕方には二ノ丸が陥落しており、また、西軍より撃ち込まれた大砲の一弾が天守閣の2層を直撃したため、そのときの衝撃で高次の姉が人事不省に陥り、侍女2人が圧死するという事態まで引き起こされ、城内は改めて恐怖に包まれたのである。
西軍は激しい攻勢を続けるとともに、開城の説得も続けていた。14日には高野山の僧・木食応其が「大津城に籠城して戦うことは秀頼公への謀叛に等しい。即座に和議を結んで開城すべし」と諭したが、高次は「これは(西軍総大将の)毛利輝元と(東軍総大将の)徳川家康の戦いであるから秀頼公の関与するところではない。家康に味方すると決めたのだから、劣勢になったからと城を明け渡すのは武門の恥である。城兵を下知して戦い、負けたら腹を切るまでだ」と、降伏勧告には応じない覚悟を示したが、大津城の防備はもはや本丸を残すのみという悲観的状況を悟り、ついにはその夜の軍議にて開城降伏せざるを得ないことを決したのである。
こうして大津城は降伏し、高次は翌15日の朝に園城寺に退いて高野山に向かったが、皮肉なことにもその日の関ヶ原の合戦で東軍が勝利しており、あと1日持ちこたえていれば敗者とならずに済んだのであった。
しかし家康は戦後の論功行賞において、高次が西軍1万5千もの兵を大津城に引きつけて関ヶ原に布陣させなかった功績を高く評価し、若狭国小浜城8万5千石の所領を与えて復帰させ、翌年には9万2千石に加増している。