宗義智(そう・よしとも) 1568〜1615

対馬府中の藩祖。宗将盛の五男。幼名は彦三。初名は、足利義昭から諱を与えられて昭景と名乗る。羽柴秀吉から一字を与えられて吉智ともいったが、のち義智と改める。対馬守・侍従。
天正7年(1579)、対馬守護で兄の宗義純より譲られて家督を継ぐが、12歳の若年であったため宗氏の第17代・義調の後見を受けて政務を執った。
天正15年(1587)、九州征伐にあたって羽柴秀吉に属し、対馬一円を安堵された。その後、秀吉は朝鮮への侵攻を意図したが、宗氏は対朝鮮の貿易・通交の友好的立場から反対し、友好派の小西行長や博多商人らと共に戦争回避に努めた。天正17年(1589)には秀吉の命で朝鮮に渡り、修交のことを斡旋、翌年に朝鮮の使節を伴って聚楽第に上る。秀吉はこれを悦び、義智を侍従に任じ、羽柴の氏と豊臣の姓を与えた。
しかし朝鮮への派兵は回避できず、文禄の役が勃発。小西行長・有馬晴信らと共に一番隊として転戦しているが、早期停戦を目指して和平交渉にもあたっている。この役の最中に講和の動きが出ると、明国の使者と共に帰国した。これらの功で、文禄4年(1595)に薩摩国出水郡に1万石の所領を与えられた。
しかし朝鮮・明との講和は成らず、慶長の役が起こる。この戦役においても渡海し、行長らと共に転戦した。この功績で、朝鮮の巨済島を所領として与えられている。慶長3年(1598)の秀吉の死後、対馬に帰還した。また、先に得た薩摩国出水の所領は肥前国田代に替えられている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では、妻が小西行長の娘であったことなどからやむを得ず西軍に属し、戦後の進退や所領に関しては肥前国の一部を没収されただけで済んだが、付加条件として対朝鮮の講和推進を命じられた。
奔走の結果、己酉約定(慶長条約)が慶長14年(1609)に締結され、その功を賞された。
天正20年(=元和元年:1615)1月3日、対馬で死去。48歳。子の義成が跡を継いだ。
なお、宗氏は元禄13年(1700)に至って10万石格となった。