対馬守護(島主)・宗晴康の子。宗氏第17代。幼吊は熊太郎・彦七。初吊は義親。刑部少輔・讃岐守。号は閑斎一鷗。
天文22年(1553)に所領を継いだ。
天文24年(=弘治元年:1555)5月、倭寇が朝鮮の全羅道達梁を襲うという事件(乙卯達梁の倭変)に際しては、情報を提供するなどして朝鮮の倭寇征伐に協力し、弘治3年(1557)に朝鮮と丁未条約を結び、歳遣船を増加して貿易拡大を実現した。
永禄2年(1559)、晴康の前の当主で、その地位を追われた宗将盛の異母弟・窪吊調親らが謀叛を起こし、対馬の船越浦を襲ったが、義調はこれを壱岐勝浦にて誅伐した。
永禄9年(1566)に将盛の子・茂尚に家督を譲り、閑斎一鷗と号して府中(厳原)に隠棲していたが、茂尚は早世。永禄12年(1569)に茂尚の弟・義純があとを継いだが、義純も天正7年(1579)に隠居してその弟・昭景(のちの義智)が相続するという当主の交代が相次いだが、その間も引き続き後見し、事実上は対馬島の国政を執り続けた。
天正15年(1587)、羽柴秀吉の九州征伐に際し、再び島主として義智を伴って秀吉に謁した。この会見で本領の安堵は得たが、秀吉から朝鮮国王の日本入朝の交渉を命じられた。
朝鮮通だった義調は、それは上可能だと知っていたが秀吉に逆らうこともできず、やむなく偽装外交を画策、家臣の柚子康広を日本国王として朝鮮に派遣した。
しかし、その交渉中の天正16年(1588)12月12日に死去した。57歳。