京極高次(きょうごく・たかつぐ) 1563〜1609

近江源氏・佐々木京極家の18代目の当主。京極高吉の嫡男。母は浅井亮政または浅井久政の娘。幼名は小法師。通称は小兵衛。若狭守・侍従・従三位・参議・大津宰相。
浅井氏の湖北制圧により父・高吉と共に坂田郡清滝村に逼塞していたが、永禄11年(1568)の織田信長の近江入りの際にいち早く臣従を誓い、6歳だった高次は信長への人質となった。
天正元年(1573)の浅井氏滅亡後、京極氏の旧臣を集めて信長に仕え、5千石を与えられた。天正9年(1581)の織田信雄による伊賀国侵攻(天正伊賀の乱)に際しては滝川一益堀秀政筒井順慶らと共に従軍している。
天正10年(1582)の本能寺の変に際し、京極家再興の意欲に燃えて明智光秀方に加わり、羽柴秀吉の本貫である近江国長浜城を攻めたが、光秀が敗れたために若狭や越前国に逃れて柴田勝家を頼った。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦においては勝家に味方し、再度秀吉に敵対して敗れた。だが高次の妹(姉とも)が秀吉の側室(松の丸殿)となったことから助命されて仕えた。このことから、妹の尻の光で出世した『蛍大名』などと呼ばれた。
その後の九州征伐などに従軍、文禄の役に際しては肥前国名護屋城に出陣した。
松丸殿に加え、高次の妻は淀殿の妹であるという閨閥関係や、弟・高知の活躍もあって天正18年(1590)の小田原征伐後に近江国八幡山城2万8千石、文禄4年(1595)には近江国大津城6万石を領するに至り、名族・京極氏の復興を成し遂げた。
秀吉の死後は徳川家康に通じた。慶長5年(1600)の関ヶ原の役では当初西軍として北陸征討軍に加わったが、のちに東軍(徳川方)に与し、9月3日に自領の大津に帰って籠城した。そして毛利元康ら西軍兵1万5千を10日間ほど大津城に引きつけて戦ったが、猛攻を支えきれずに9月14日、つまり関ヶ原の合戦前日に開城して宇治、ついで高野山に逃れた(大津城の戦い)。
しかし戦後、家康は西軍の一部を大津城に引き付けた功績を賞し、仕官を恥じる高次を弟・高知に説得させて若狭国小浜城8万5千石を与えた。翌年には9万2千石に加増。
慶長14年(1609)5月3日、小浜で没した。47歳。法名は泰雲院徹宗道閑。