伊東祐兵(いとう・すけたか) 1559〜1600

日向国飫肥(おび)城主・伊東義祐の子。幼名は虎熊丸。通称は六郎五郎。初名を祐隆。従五位下・民部大輔・豊後守。
元亀2年(1571)、島津氏に攻められて勢威が衰え、天正6年(1578)には大友宗麟の援けを受けて島津家久と戦ったが、大敗して父・義祐と共に宗麟を頼って豊後国府内に落ち延び、その後に豊後国より伊予国へと渡った。
天正10年(1582)、京に上って羽柴秀吉に仕え、翌天正11年(1583)に河内国丹南郡半田村に5百石を与えられた。
天正15年(1587)の九州征伐には先鋒役となって日向国に入り、九州の平定後に曾井・臼杵・宮崎・清武・諸県などの地を宛がわれたが、のちに旧領である飫肥・清武・田野などに改められて飫肥城に復帰、3万6千石の所領を得た。
文禄慶長の役には島津豊久と共に渡海、蔚山城救援作戦に活躍した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役でははじめ西軍、のちに東軍に転じて本領を安堵されることとなったが病に倒れ、10月11日に大坂で病没した。42歳。墓所は日向国飫肥報恩寺。