最上義守の子。最上義光の弟。系図によると、名を義久とも。甲斐守。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役における出羽合戦のとき、7百挺の鉄砲を持つ一千の兵を率い、清水義親と共に参じて長谷堂城を守る志村光安を助けたとする説がある。最上軍の意外に鉄砲が多いのに驚き、さすがの直江兼続も正面攻撃を断念せざるをえなかったという。
元和4年(1618)に楯岡城主となり1万6千石を領した。
義光の没後に最上氏当主となった最上家親は、元和3年(1617)に鷹狩の帰途に光直邸に立ち寄って饗応を受け、その日の夜に急死したというが、その後の元和8年(1622)に至って松根光広から、家親の死は光直の毒殺によるものと幕府に訴えられるも、証拠不十分で事なきを得た。しかし、これが発端となって最上氏のお家騒動へと発展していった。
この騒動がもととなって最上氏は改易となり、光直は改易後に酒井忠世に預けられた。