最上家臣。伊豆守。別称を高治。
最上義光に仕え、慶長5年(1600)9月の出羽合戦に際しては3百の兵で出羽国山形城の支城・長谷堂城を守っていたが、楯岡光直・鮭延秀綱らの援軍を得て、上杉方の直江兼続が率いる大軍に圧迫されながらもよく支え、ついには10月1日の上杉軍撤退まで城を守りぬいた(長谷堂城の戦い)。
この後、山形城周辺の上杉勢が一掃されたのちの庄内地方平定戦には最上義康らと共に臨み、降伏した下吉忠を先陣として尾浦城の攻略に功があった。また、翌慶長6年(1601)4月からの亀ヶ崎城(別称を東禅寺城、のちの酒田城)攻略にも参加、それらの功を賞されて慶長8年(1603)に亀ヶ崎(酒田)3万石を与えられた。
慶長13年(1608)に主家の最上氏が羽黒山の五重塔を修造するにあたっては総奉行となって落成させるなど、とくに庄内地方の寺社の発展に大いに寄与した。
また、武芸だけでなく文学にも長じ、連歌などにも親しんでいたという。
慶長14年(1609)3月7日に死去した。