上杉家臣、のち最上家臣。対馬守。通称は治右衛門(次右衛門)。別称を実秀。
はじめ上杉景勝の家宰・直江兼続の家臣で、慶長3年(1598)に上杉氏が陸奥国会津へ移封されるに際して1千石を給せられて出羽国庄内の尾浦城(別称:大浦城・大山城)の城番に任じられる。
慶長5年(1600)9月の出羽合戦に際しては、庄内から六十里越街道を進んで最上領に侵入し、白岩城・谷地城などを降して最上氏を圧迫した。しかし10月に至って、前月15日の美濃国関ヶ原の合戦で西軍が大敗を喫したとの報を得た上杉氏は最上領からの撤退を開始したが、吉忠のもとにはこの命令が届かなかったために取り残されることとなり、谷地城に籠城して最上勢の逆襲に抵抗したが、数日を経て降って最上義光に仕えた。
その後間もなく行われた庄内地方の平定戦においては最上勢として出陣し、最上義康らの先鋒となって尾浦城の攻略に武功を挙げた。翌慶長6年(1601)4月からの出羽国亀ヶ崎城(酒田城)攻撃においても最上川の渡河戦や亀ヶ崎城主・志駄義秀との開城交渉に功績を挙げ、それらの功によって尾浦城2万7千石を与えられ、最上氏の重臣に列す。
慶長19年(1614)6月1日に鶴岡城下の新関久正邸で志村光清と会合していた際、一栗高春(兵部)の急襲を受けて討たれた(一栗兵部の乱)。