志駄義秀(しだ・よしひで) 1560?〜1632

上杉家臣。父は与板衆で越後国三島郡夏戸城主の志駄義時。修理亮。
父・義時は永禄4年(1561)の川中島の合戦(第4回)に従軍して19歳で討死、そのとき義秀は2歳であったといい、長じて父の遺領を継ぎ、直江兼続の与力となる。
文禄3年(1594)の時点においては、与板衆として知行定納高1563石、軍役93人7分。
慶長3年(1598)、主君・上杉景勝の会津移封に従い、出羽国酒田城(別称:亀ヶ崎城・東禅寺城)5千1百石の城代となる。
慶長5年(1600)9月の出羽合戦においては、尾浦城主の下吉忠と呼応して最上義光領の出羽国村山郡に侵攻、白岩城などを陥落させた。しかし、主力決戦となった美濃国関ヶ原の合戦で上杉氏の与した西軍が敗北したことを知ると白岩城を放棄して酒田城に帰還し、関ヶ原の役の終息後も籠城を続けて翌慶長6年(1601)4月からの攻城戦にもよく支えたが、同年6月に和議を結んで開城して米沢に撤退した。
同年の上杉氏の米沢移封後は出羽国荒砥城代となって1千石を知行し、元和8年(1622)6月21日、同年2月に没した平林正恒の後任として米沢奉行職に任じられて2千石に加増された。
寛永9年(1632)8月16日に死去。