木崎原(きざきばる)の合戦

島津氏と伊東氏の対立は根深く、遡ること180年前の応永4年(1397)に衝突したことを発端とするという。以来、両氏の小競り合いは日向・大隈の国境付近で毎年のように続いていた。

永禄5年(1562)になると島津氏は日向国山西・飫肥・真幸・飯野の地域をほぼ掌中にした。島津義弘は飯野城を修理してここに入り、防衛線構築のために加久藤城を築いた。伊東氏も負けじと攻勢をかけ、永禄9年(1566)10月、永禄11年(1568)6月と戦闘があったが、いずれも決着がつかずに終わっている。
しかし元亀2年(1571)6月、島津氏当主・貴久が没した。この動揺を衝くべく伊東氏は進軍を開始する。
元亀3年(1572)5月4日、伊東義祐は弟・伊東祐安を大将として島津方の加久藤城を攻めさせるために3千の兵を与えた。一方の島津義弘も、これを救うために飯野城より出兵。その勢3百余人という。両軍は木崎原で激突することになった。
圧倒的少数であるために苦戦を強いられながらも義弘は地の利を生かし、地侍(土豪)を巧みに使いこなし、「釣野伏」と称する陽動戦術で伊東勢を破ったのである。
伊東方は大将の伊東祐安を討ち取られ、他にも名だたる武将をほとんど失うという惨敗を喫し、560人ほどの死者を出した。また島津勢も辛うじて勝ったとはいえ、250人が戦死するというほぼ壊滅に近い状態に追い込まれるほどの激戦であった。
この戦い以後、伊東氏の勢力は急速に衰え、日向国南部にも島津氏の力が浸透することになったのである。