(たか)城の戦い

羽柴秀吉による九州征伐の戦いの一つである。
九州全土を呑みこむ勢いの島津氏を征討するため、天正15年(1587)3月1日に軍勢を率いて大坂城を発向した秀吉は、先行して進発していた弟・羽柴秀長を日向方面軍の総大将に命じ、日向路に進めさせた。秀長軍には軍監として尾藤知定がつけられ、率いる軍勢も黒田孝高毛利輝元小早川隆景蜂須賀家政らが率いる15万の大軍である。
この頃は日向国から侵攻した島津家久が豊後国の大半を制圧し、戸次川の合戦で逃走した大友義統の居城であった府内城に駐留していたが、圧倒的な兵力を擁する秀長軍が押し出してくると、3月中旬より府内城を棄てて後退を開始。戦線を日向国中央部にまで下げ、高城と都於郡を基軸として防衛線を構築した。
この九州征伐における他の戦線にも共通することだが、羽柴勢は多数の鉄砲隊を擁していた。この日向戦線でも多数の鉄砲隊を繰り出し、島津勢をじりじりと高城に追い込めていったのである。

4月上旬、秀長軍は高城の周囲に34もの砦や陣所を布いて包囲体制を作り上げた。
高城は島津氏重臣の山田有信が守っていたが、多数の兵力と鉄砲を有する秀長軍の前にして落城は時間の問題であった。島津勢はこの包囲網を破るため、援路を扼する根白坂砦の攻撃を企図したのである。
4月17日、島津勢は大手・搦手の両面からの攻撃に打って出た。鉄砲隊で応戦する砦の守将・宮部継潤に対して島津勢は抜刀隊を組織して果敢に攻め込んだが、隊同士の連携がうまくいかず、勝機をつかむことができずにいた。そこに、砦の救援に駆けつけた黒田・小早川隊が合流したため大勢は秀長軍に傾き、激しい攻防の末に島津勢を破ったのである。この戦いで秀長軍は島津忠隣をはじめとする8百余の将士を討ち取ったという(根白坂の合戦)。
翌18日、勢いに乗る秀長軍は高城に総攻撃をかけた。島津勢をはるかに凌ぐ圧倒的な物量で力押しに攻めたのである。勇猛で名を轟かせた島津勢もこの鉄砲隊の火力に圧倒され、高城は9百余人の死傷者を出して落城した。

この高城での敗北は、島津氏が秀吉に降るひとつの決定的な要因になったといわれている。4月21日、島津氏重臣の伊集院忠棟は秀長の陣へ出向き、講和交渉を申し入れている。