太田康資(おおた・やすすけ) 1531〜1581

江戸太田氏。扇谷上杉氏の重臣・太田資高の二男。母は北条氏綱の娘。通称は源六郎・新六郎。出家号は武庵斎。
6尺余という長身に加えて筋骨たくましく、優れた武勇で数々の合戦に手柄を立てたという。
父・資高ははじめ扇谷上杉朝興に仕えていたが、大永4年(1524)1月に北条氏綱に内応して江戸城を占領させた功績を賞され、所領をほぼ安堵されたことに加えて氏綱の娘を後室に迎えており、天文16年(1547)7月に資高が没すると康資が家督を継いだ。康資には腹違いの兄・景資がいたが、北条氏との関係から康資が家督を相続したものとみられる。また、元服するにあたって氏綱の後継・氏康の「康」の字を拝領、妻に氏康の養女(実父は江戸城代・遠山景綱)を娶るという格別の処遇を受け、北条家中では譜代重臣に匹敵する扱いを受けていた。永禄2年(1559)の時点では、約2千貫文の知行地を与えられている(うち康資の直轄領は930貫文)。
武蔵国内を主として上杉氏勢力との対戦に従軍していたが、行賞不足を不満として安房国の里見義弘と結んで寝返り、永禄7年(1564)1月の国府台の合戦:その2では里見方として参陣。しかしこの合戦に敗れ、里見勢とともに上総国に敗走した。
この里見氏への逐電が裏目に出たことによって所領は北条氏に押収されたほか、人質として預けられていたとみられる長男・駒千代丸も同年8月末に殺害され、江戸太田氏は没落するに至った。
その後、康資自身は里見氏に属して客将的な立場にあり、常陸国佐竹氏・甲斐国武田氏・越後国上杉氏などとの外交折衝に携わっていたが、天正9年(1581)10月12日、里見氏の重臣である正木憲時の謀叛に連座して自害した。享年51。法名は武庵斎日高大居士。