太田資高(おおた・すけたか) ?〜1547

江戸太田氏。扇谷上杉氏の重臣。大和守。万好斎道悦と号す。武蔵国岩淵城主。
通説では太田資康の嫡子とされているが、資康が文明18年(1486)に扇谷上杉氏から山内上杉氏方へと転身していること、受領名の大和守は太田道灌の弟(または叔父)とされる資俊が称したものであることなどから、資高は資俊の子孫であり、庶家から本家の家督を継いだという可能性も考えられる。
いずれにしても上杉朝興に属して扇谷上杉氏重臣の地位にあったが、大永4年(1524)1月、朝興の不在を衝いて侵攻した北条氏綱に内応し、北条氏による武蔵国江戸城の攻略に大きな功績があった。
江戸城が北条氏の属城となったのちにも所領と城将の地位の保全を認められ、のちに氏綱の娘を妻に迎え、他国衆ながらも一門衆格の待遇を得て重く用いられるようになった。
天文16年(1547)7月24日没。法名は鷲生院日悦または春山院道悦、または万好斎如水道悦日悦大居士。
資高には先妻との間に生まれた長男の景資があったが、家督は氏綱の娘の産んだ康資が相続した。