天文4年(1535)に松平清康が死ぬと子の広忠が跡目を継いだが、松平氏単独で領国の三河国を維持することは困難であり、天文9年(1540)頃より尾張国の織田信秀が三河国に侵攻、安祥城を奪われるという事態になった(安祥城の戦い)。そこで広忠は駿河国・遠江国の領主である今川義元の傘下に入り、そのために子の竹千代(のちの徳川家康)を人質に出すことになったが、竹千代を送り届ける途中に三河国田原城主・戸田康光父子に欺かれて奪われ、信秀の元に送られてしまったのである。
これを聞いた今川義元は西三河から織田軍を追い出すため、織田方の西三河における橋頭堡となっていた安祥城を攻めることにし、太原雪斎を大将、朝比奈泰能を副将として約1万の兵を出陣させた。一方の信秀も4千余の兵を率いて安祥城から打って出て、矢作川を渡って上和田に着陣した。
両軍の戦いは天文17年(1548)3月19日未明、小豆坂で始められた。今川勢が坂の頂上付近にいたために優勢で、逆落としに攻め立てたため織田勢の先鋒が突き崩された。しかし織田勢は兵を退いて矢作川を西に渡って陣を立て直す。今川勢も東岸に布陣し、ここで再び合戦に及ぶこととなった。しかし今回の戦いでも織田勢が巻き返しを見せた。今川勢の先陣を命じられていた松平勢が崩れ始めたのである。
今川勢はそのまま押され気味になるかと思われたが、それまで兵を伏せていた岡部長教隊が横から攻め立てたため、織田勢は総崩れとなって安祥城へと敗走したのである。